境界線

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 今日の青空は、いつもより遠い。
 裏道の端に置きっぱなしの自転車が、盗まれてはいないかと時折振り返る私の横で、明香は一心不乱に色鉛筆を動かしている。目の前には川、砂利、足元で生い茂る草、猫じゃらし。遠くにバスの走る音、車の排気ガス、電柱。雑多な風景が否応無しに私たちを襲うが、彼女の視界には入らない。
 彼女の描いている絵は、夜の街。


 初めて出会ったとき、明香は机にへばりついて、取り憑かれたように絵を描いていた。右の手が、鉛筆の黒で汚れている。私の友達は、こいつはいつもこうなんだよ、と言って私に笑いかけた。
 私の存在に気づいたのだろう、明香の切れ長の目は私を見ていた。視線が合うと向こうは小さな礼をして、またがむしゃらに描き始めた。
 私はかつてない新鮮な空気に呑まれた。それは鋭さと柔らかさを含み、明香を取り囲んでいた。
 本鈴が鳴り響く。はっとした。後ろ髪を引かれるような思いで、友達に返すはずのノートを手にしたまま私は駆け出した。


 隣からため息が聞こえて、とりあえずひと段落ついたことを知る。
「お疲れ」
「うん、疲れた。疲労感だけで比べれば授業よりもきついよ」
「まぁでも、楽しいんでしょ」
「そう。だから、疲れたとしても全然苦にならない」
 明香が笑うが、やはり倦怠感は拭えない。明香の場合、満面の笑みよりも疲れきった笑顔の方が、私は美しいと思う。
 私は絵を覗き込んだ。
「完成?」
「まさか。まだまだだよ」
「そうなの。これだけでも十分すごいから、もう完成したのかと思ってた」
「あたしを侮(あなど)ってくれちゃ困るよ、これからもっと良くなるんだから」
 明香は照れくさそうに口を緩めつつ、それでもきっぱりと言った。

 私は座ったままで顎を上げ、空を仰いだ。明香もそれに倣う。
 空はあまりにも遠く、手を伸ばすなど恐れ多い。鳥が普通に空を飛んでいる、すごいなと思った。

 今追われているさまざまなことを、今この瞬間だけ、忘れても許されるだろうか。

「ずっと頭の中に、イメージがあるんだ」
「絵の?」
 明香は頷いた。
「一人の人がね、立ってるの。後姿だから顔は分かんないんだけど、ワンピースみたいな服を着てるから、多分女の子だと思う。
 その子は少し上を見上げて立ってて、――何だろう、両手をぎゅっと握り締めてるわけでもないんだけど、強い意志で立ってる感じがする。
 風が吹いてるのか、その子の髪は後ろになびいてる。首は見えそうで見えない。
 それで、空は蒼い。今日みたいに。でも、季節感は全くない」
「そこまでイメージ固まってるのに、描かないんだ」
「うん。たぶん今のあたしにとって一番描きたい絵なんだよ、だから描かない」
「どういうこと」
「一番描きたい絵を描いてしまったら、次が無くなる気がして、怖い」
 私は明香を見つめた。
何も言えない。
「あたしから絵を奪ったら何も残らないだろうって、自分でも分かってるから」
 空が橙色に染まり始めている。飛んでいる鳥たちは、単なる黒い影の塊にしか見えない。
 明香が、風に乗せるようにそっと呟いた。
「ごめん、何であんたにこんなこと言っちゃったんだろ」
 強烈なだけの形容しがたい感情が湧いて、私は手元に生えている雑草をぎゅっと握り締めた。すると指先に、一瞬だが鋭い痛みを感じる。手を透かすようにして眺めると右の小指が切れていて、自分の鼻のてっぺんにかすかな、しかし独特の臭いがした。
「……あ、血」
 何の感慨も無くそう口にした私を、明香は呆れたように見た。
「何やってんの? あーあ、垂れ出してる」
 指をぺろりと舐めると、ちゃんと鉄の味がする。嫌いなはずなのだが、何故か奇妙な懐かしさを憶える。
 鉄の味と草の匂いが、鼻先で混ざる。
 軽く吐き気がした。
「げー」
 自分の口から、うんざりとした声が漏れる。
「何、女の子らしくない」
「今更そんなこと、気にする私じゃないよ」

 こんなことで『生』を実感するような自分を情けないとは思うけれど、どうしようもない。

「ねぇ」
「どうしたの突然」
「さっきの話だけどさ、」
 私は、食べ物を口に含んだまま喋る子供のように、もごもごと呟いた。
「一番好きなものを思い切り描くのもいいと思うよ。私は」
 黒目がちな明香の瞳は、果たして今の私を確実に映してくれているのだろうか。
「描きたいものを描いて、達成感を得て、それで放心状態になるのもいいじゃない。例えそれで描けなくなったとしても、やっぱり絵は好きなんでしょ? また描きたくなるって」
「そうかな」
「そうだよ」
 私は意気込んでまくし立てた。
「絵を描くことは、明香の義務じゃないんだから」
 やたら自分の声が大きく響き、驚く私の顔を見て、明香は吹き出した。そして瞳を軽く伏せ、意地の悪い微笑みを浮かべながら、
「さて。つまらない御託を聞いたところで、」
「うわぁ酷い。悪魔」
「絵の続きを描こうかな、っと」
 明香が色鉛筆を手にし、私は寝転び、草のちくちくする感触を楽しんだ。
 草の匂いの隙間に、明香の華奢な背中を眺めながら、うとうと。

「出来た!」
「え、もう?」
「ほら、見て見て」
 私は起き上がろうとしたが、明香が私の左肩をぐっと地面に押さえつけたせいで、強制的に、またも仰向けになる。そして明香は左手に持った紙を、私の顔前に差し出し、口の端を軽く上げた。
 逆光でよく見えず、描かれた絵が何なのか、把握するのに時間がかかった。
「ちょっと、何これ」
「今さっきのあんたの顔。上手いでしょ、あまりにも似過ぎて、自分で自分が怖いわ」
 驚きという色で塗り固められた私の顔が、目の前でひらひら揺れている。恐ろしく似ていて、怒る気が失せた私は、情けなく笑った。
「明香には適わないや」
 川の流れる音の大きさに、今更ながら気づいた。
「もっとカラフルにしてあげようか」
「勘弁してよ、ほんとに」
 泣きべそをかいたような声が出たが、それはますます明香を笑わせるだけだった。

 車道の端に置いたはずの自転車が見つからず焦っていると、先に車道へと上がっていた明香が、自転車のかごへ荷物を載せていた。
 明香は歩いてきたのだから、当然それは私の自転車である。
「まったくもう、勝手なんだから」
「あんたが遅すぎるからだよ」
 ぬるいぬるいと呟きながら、自転車を押して歩く。
「私、帰るのこっちなんだけど」
「悪いね」
「まさか、そのまま家に帰る気?」
「だって、あたしの家、すぐそこじゃん。どうせあんたも暇でしょ?」
 しなくてはならないことはもちろん沢山あるけれど、言われてみれば確かに、今すべきことは何もない。
「まぁいっか、明香に付き合ってあげよう。画材重そうだしね」
「そうこなくっちゃあ!」
 そう言うとすぐさま、明香は私の自転車にまたがった。驚く私に、明香はお腹を抱えて笑いながら、またあの絵を見せびらかす。
途端に私の顔は歪む。
「冗談だよ」
 どうして明香はこんなにも、私の扱い方を理解しているのだろう。
気の遠さで思わず泣きそうになり、より一層情けない顔で私は笑った。


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