盗みの国のアリス

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     盗みの国のアリス


















 アリスのもとへ、手紙が届く。
 これを誰が読むのだろう。誰がこれを知るのだろう。誰がこれを教えるのだろう。
 アリスのもとへ、アリスが届ける。
 忘れてしまった不思議の国を。
 アリスが受け取る、不思議の国への招待状。
 今日もどこかのアリスが行くのだ。不思議の国へ。






























「広島県東広島市西条町上見6‐8‐39プラテナスB棟202」
「どこだ、そこ?」
 私の回答を聞いた男は、呆れたとも困ったともとれる表情で首をかしげた。
 文目、風林火山だ。何があっても驚くことなかれ。
 人生の大先輩であるおじいちゃんが、昔、耳がタコになるぐらい言っていた言葉、な気がする。それは風林火山の林のように静かにただ、山のようにどっしり構えて物事をとらえなさいという意味。風が吹いても流されず、火事が起きても動揺するなという意味。
 あれ、風林火山ってこんな意味だったっけ……。
 とにもかくにも、困った事態におちいると、私はおじいちゃんに教えてもらった、そういった感じの風林火山を心に唱え続けていたのだが、どうにも現実は残酷で受け入れがたい。説明しよう。木漏れ日がまぶしい朝、心地よい睡眠から目覚めた私の目の前に広がっていたのは、知らない風景、知らない土地、知らない乗り物、まさにアリスも驚くワンダーランドだったのだ。いいや、基本的に車高の高い車が走っていたり、アスファルトっぽい道路やレンガの造りの建物があったり、アリスよりもずっとリアルなワンダーランドだ。
 今、現に私は。
「まあいいや、とりあえず署まで来い」
 警官っぽい人に逮捕されかけていた。
「ま、待ってください。私何がなんだか」
 さっぱりわからない。朝の寝ぼけた私の頭はうまく働かず、絶叫し続けている。漫画的に表現するなら、バーコードのような縦縞と汗マークが頭の上半分に付いているような状態だ。最初に思い当たったのは拉致≠ニいう言葉。しかし、拉致したわりに放置プレイってどうなの。考えてみたが、その線は薄いかもしれない。
 昨日まで普通の大学生で、意気揚々と二度目の春休みを迎えていた。ここに来る前の最後の記憶では、私はいつものようにボロくさい下宿で寝ていた。すなわち、目覚めると下宿の布団の中で、無理無理二度寝しよ、ていうグダグダな朝を迎えているはずだった。
「ほい、手出して」
 私は右手を捕まれ前に伸ばされる。私は慌ててその手を引っ込めようとしたが、再び風林火山を心の中に唱え押しとどまる。落ち着くんだ、私。冷静に対処しないと事は悪化の一途をたどることになる。とりあえず、おとなしく片手は手錠に掛けられた。別にいいじゃない、手錠くらい。風が吹こうが槍が降ろうが、落ち着くのよ、私。
 眠たい目を自由なもう片方の手でこすっていると、私の頭はもう一つの可能性を導き出した。酒を飲んで酔っ払ってこんな見知らぬ土地に来てしまったのではないだろうか。そうだ、きっと記憶が飛んで下宿で寝てたところまでしか覚えてないのだ。それなら誰かちゃんと家まで送りなさいよ。いちおう私年頃の女の子なんだけど。
「すみません、私何か悪いことをしましたか?」
 言葉ははっきりと、しかし反抗しているようには見せずに、おとなしく控えめに私は質問した。公衆の面前で手錠をかけるくらいだから、それ相応の理由があるにちがいない。そして、それを知る権利も私にはある。
 相手の男性との身長差は目測二十センチ弱。この身長差を利用しない手はなかった。回答が返ってくる前に、私はここぞとばかりに、女の悩殺技のひとつである上目遣いを発動する。
「何って……、存在そのものだろ?」
 私は無意識にポカンと口を半開きにした。効果はいまひとつどころか、倍返ししてきた。その男は半放心状態の私の左手も掴み、ガチャリと無常に手錠を掛ける。
「えー!」
 私はワンテンポ遅れて絶叫した。もう風林火山うんぬんではない。だって本当に火事になったら誰だって動揺するでしょ、槍が降ってきたら動揺するでしょ。
「存在って、えー!」
 私は二回訴えた。ただでさえ今の自分の置かれた状況に混乱しているのに、さらに意味のわからない小学校のイジメみたいな理不尽な理由で逮捕されるのだ。まさに、不当逮捕。
 男が着ている制服は見たこともない茶色いもので、乗ってきた車も上に同じだが、周りに野次馬が集まってきていて誰も助けてくれずに私の方に冷たい視線を送ってくるところをみると、変な組織に絡まれているというわけではなく、どうやら変なのは私の方みたいだった。私は周囲の視線をアイドルのごとく浴びて、さらに頭が混乱する。
「ほら、さっさと車に乗れ。署に行ったらちゃんと事情聴取してやるから」
 その男に、半ば強引に背中を押されながら車に誘導される。私は心の中で絶叫しながら、半ばパニック状態で口を半開きにしたまま、パトカーであろう焦げ茶色の車の後部座席に乗せられた。運転席にはすでに別の男が乗っていて、私に続いて男も後部座席に乗り込んでくる。
「出してくれ。第18法令違反で現行犯逮捕した。東署まで連行する」
「了解」
 車に乗っていたもう一人の男性は相槌をうち、車を発進させた。
 車は加速時にブルンというしっかりしたエンジン音を出すわりに、すうっと滑るように滑らかに、見知らぬ道路を進んでいく。混乱した私の心を、どんどんどんどん置いてけぼりにしながら。

 こうやって、ワンダーランド入りした私の疑問を先に整理する。
 正直わからない小さな疑問は数え切れないほどある。車の窓から見える建物の多くはレンガ造りで、その雰囲気はなぜか一世紀前の仕様であること。警察の服装が見たこともない焦げ茶の、まるで軍服みたいな服であること。取調室がテレビで見ていたこざっぱりした部屋ではなく、コンクリ壁の薄汚れた陰気な部屋であること。パトカーも茶色というセンスの無さ具合。私を連行した男の公務員とは思えない態度の悪さ。取調官が長身で美脚なこと。
 とまあ、たくさんありすぎりるので、大まかな疑問だけを整理して、逆に取り調べられ中に質問してみることにした。
 まず、第一にここがどこなのか。そして、第二にどうして私はこの見ず知らずの土地にいたのか。第三に、第18法令違反とは何か。この三つの大きな疑問が解消されれば、私の心は風林火山を取り戻せる気がする。
「あのう、二三質問があるんですけど」
「何?」
 取調官はおっとりした優しそうな顔で微笑む。
 小さなテーブルを挟んで、私の前に女の取調官がひとり座っている。そして、部屋の入り口には、さっき私を連行した男が退屈そうに腕組みをして立っていた。
「ここ、どこですか?」
 私の質問に女はきょとんとし、さっきの男は苦い顔をする。女が質問の答えに迷っていると、代わりにその背後の男が答えた。
「連行する前にも教えただろ。ここはアント小国の首都バルセロスだ」
 だから、どこですかそのゲームオタクくさいネーミングセンスの国。ヨーロッパですか。それユーラシアの中にあるんですか。それとも広い海の小さな島国ですか。
 私は湧き上がる疑問を抑え、顔は平静をよそおいながら第二の質問に移る。
「えっと、それじゃあ第18法令違反って何ですか?」
「おいおい、第18法令を知らないっていうのか?」
 私は一瞬うなずいていいのか迷ったが、無知ですみませんというイヤミをこめて細目でにらみながら、短く首を縦に振った。男はあからさまにため息をつき、私をにらみ返す。
「まさか、記憶がないの?」
 男の質問に答える前に、今度は女が質問してくる。私はそれには首を横に振った。なぜここに来たのかはわからないが、お酒の飲みすぎとかで記憶がないわけではないと思う。もし、飲みすぎて記憶がないなら二日酔いになって、今頃ひどい頭痛にみまわれているにちがいない。となると、昨日普通に寝て起きたらこうなっていたというわけで、それもそれで説明がつかないが、今はそれ以外に考えられる状況はなかった。
「まあ、忘れたことすら忘れてる可能性もあるがな」
 大丈夫です。この通り、頭打ったりしてませんし健全健康です。自慢じゃないけど酒乱でもありませんし、記憶喪失なんてそんなラビリンスな話ではないと思います。
「話は戻るが、知らないっていうなら一応説明してやる。第18法令っていうのは、この国では頭の中にBCチップを埋め込む義務があるっていうものだ」
「私、ここの国民じゃないんですけど」
「ちゃんと最後まで聞け。国民に限らず、入国者にはBCチップあるいはそれに付随する仮のICチップを埋め込む義務が生じる。要するに、郷に入るには郷に従えってことだ。残念ながら、外交使節や軍隊と違ってお前には治外法権がないから、きちんと認証チップを身体に埋め込む義務がある。ま、お前が認識してるかどうかは知ったこっちゃないが、これを犯すっていうのは、管理社会を押してるこの国ではけっこうな重罪だ」
 BCチップって何。身体に埋め込むとか何、気持ち悪い。理不尽とはまさにこのときの私のためにある言葉だった。自分のあずかり知らないところで勝手に入国させられ、さらには犯罪者にまつり立てられる。覚えがない。それでも、私はやってない。
 古き歴史の中の偉業者ダーウィン並みにごねてみてもいいのだが、これ以上の状況の悪化は望ましくない。そこで、私は相手の言い分をある程度受け入れ、和解策を頭の中で模索することにした。そう、ここは利己的にしたたかに、風林火山にだ。
「それで、身元は?」
 黙っている私に、女が質問してくる。
「日本、広島」
 女は私の回答を聞き困った顔をした。連行前に説明したときの男と同じような反応だ。
「悪いが、知らない地名だ。調べてみたが、この地球上にそういった土地も国も存在しない」
 男は説明して、再びため息をついた。
 私の賢い頭が状況を整理すると、ほんの少しだけ、自分のおかれた状況が見えてきた。私の住んでいた日本の広島県は少なくとも彼らの頭の中には存在しない。そして、言葉は普通に通じるし、彼らがヤクザみたいな悪徳組織ではなく、国家警察的な公的組織であることは間違いないようだ。さらに、どうやらICチップだかなんだかを身体に埋め込まないと、この国に立ち入ってはいけない、という禁を私は犯したから取調べを受けているのだ。
 そうだ、こういうときは素直に謝っておくのが得策。心通ずれば情けありってね。だって、人間知らないうちに悪いことをしているなんてしょっちゅうじゃない。
「すみません、私そういう法令があることも何も知らなくて。ここがどこだかもわからないんです」
 ここで女の必殺技を発動。困った顔で鼻をすすり、ちょっと涙目にしてみせる。同姓の女には逆効果なこともあるが、男はだいたいこれでなんとかしてくれる。
「まあ、あれだ。チップを身体に埋め込めば済むだけの話だ。とりあえず、お前は記憶喪失者ってことでいいな?」
 狙い通りだが、ちょっと意外な反応が返ってきた。相変わらずむっつりした表情からそれは読み取れないが、男はどうやら面食らったようだ。この男の言い方から察するに、おそらく、記憶喪失者であれば私にとって好都合なのだろう。私はうなずいてから女の顔をちらっと見る。女は首をひねって私ではなく男の方に目を向けた。そうそう、こういう自分以外の同姓に対する男の甘い反応を、女は妬む習性がある。
「それじゃあ、事情聴取はおしまいね」
 女は机に置いてたペンとバインダーを持って立ち上がり、男のそばを通り、一度だけそいつとアイコンタクトを取ってから部屋の外に出た。そのとき一瞬見せた彼女の表情は、なぜか物悲しそうで、私に対する妬みとはどこかちがっているような気がした。
「聴取は終了だ、立て。俺に付いて来い」
 私は言われたとおり立ち上がり、男の後に続いて部屋を出た。そのまま黙って男に連れられて署を出て、私は再び車に乗せられる。しかし、今度は焦げ茶色のセンスのない車ではなく、薄いグリーンのどうやら彼の自家用車らしきものに乗せられた。助手席には先に例の取調べ官の女が乗っていた。車は三人を乗せ、さっきのものとはちがって静かに発進する。窓の外の景色を見ると、暗雲が町中に広がり太陽の光をさえぎっていて、今にも雨が降りそうな空色だった。
「あの、どこへ行くんですか?」
「病院よ。もしかしたら、あなた何か思い出せるかもしれないから」
 私の問いに女が振り返って答えた。ついで、男が運転しながら私に尋ねる。
「そういや、なんて名前だったっけ、あんた?」
 連行前にも、事情聴取でも言ったのだが、まだ覚えていないようだ。それでも警察官か。
「杉宮文目」
「記憶喪失でも名前は覚えてるんだな」
 なにこれ、私からかわれてる。
「長い名前ね。なんて呼んだらいい?」
 むすっとした顔をしている私に、女は苦笑しながら尋ねた。
「杉宮で」
 私は短く答えた。
 そうこうしているうちに車は目的地に着き、大きな白い建物の前の駐車場に停まった。建物は十階建てで、一階の正面玄関からは、一般の人にまぎれて白衣をまとった看護婦や医者とおぼしき人々が出入りしたりしている。おそらく、ここはこの国の病院だ。先頭に男、その次に私、最後尾に女という順番でその建物の中へと入った。入り口から建物の中の壁まで真っ白に染められていて、天井に取り付けた蛍光灯が作り出す光の影が目立つほど多くのものが白一色だった。天井からの出っ張りに、赤い十字マークが取り付けられているナースステーションと思しきところに男が一人で行き、なにやら二言三言内緒話をしてから、離れて待っていた私たち二人を手招きした。
「杉宮、お前に会わせたいやつがいる」
 相変わらず二人にサンドイッチされる形でしっかりマーキングされながら、私はその会わせたい人の階まで階段を上らされることになった。326号室にその人物はいるらしく、3という数字がマークされている階で私たちは廊下に出る。逮捕されてる身で私に拒否権はなく、私は二人に見守られるような気まずい状態で326の病室に入った。
 そこは、さっぱりとした白が広がる四角い空間だった。病院とはこんなに白かっただろうかとすら思う。ベッドの鉄パイプから布団のシーツ、カーテンから小さな棚まで全てが純白で、一つでも他の色が混ざればまるで浮きあがっているようにすら見えた。
 風景に浮いていたのは紛れもなく、彼らが私に会わせようとした人物だった。薄水色の病院着を羽織った真っ黒な髪の男の子が、ベッドに上体を起こした状態で座っていた。外見は幼く見えるが、おそらく歳は私とさほど変わらないだろう。
「こんにちは」
 私とその他二名を見て、男の子は微笑みながら挨拶をする。
「えっと、こんにちは」
 誰、ぜんぜん知らない人。
 私ははにかみながら挨拶を返した。
「杉宮、こいつに見覚えはないか?」
 ないです、微塵も。
 私は無言で首を横に振る。さっきから、こいつら私に何をさせようとしているのか、さっぱりわからない。有名人とは程遠い、平凡という言葉に凡という字を十個くらい足し合わせたらちょうどいいと思えるくらい平凡な顔立ちの、ただの若い男に見覚えがあるわけがない。
「そうか、何か記憶は戻ってきたりはしないか?」
 私はエスパーですか。そもそも、記憶は正常です。昨日の晩、ぐっすりスヤスヤ眠りについたのをしっかりと覚えております。ていうか、この人ホントに私が記憶喪失だと思ってんの。
「実はあいつも記憶喪失でな。もしかしたら共有してる記憶があるかもと思って連れてきたんだ」
「あなたが事故的な記憶喪失でないなら、人為的に記憶を盗まれた可能性があるから」
 エスパーですか、あなたたちは。見かけによらず、そっち系の電波さんなんですか。
「何不思議そうな顔してんだ。闇の世界じゃ記憶を盗まれるなんて有名な話だぞ」
 有名な話だぞって、そんな真面目な顔で言われても。私の心は二歩ほど後ずさった。

 私の認識は一変した。国家公務員だろうがなんだろうが彼らを信用してはいけない。彼らが電波さん万歳な人たちだということがわかったからだ。
 本当に記憶が無いようだからと、わざわざ丁寧に説明してくれた彼らの話によれば、この世界の住人はすべて盗む≠ニいう能力を有しているようだ。そして、一週間に一度はその盗む≠ニいう能力を使わないと心停止に至り、やがて死んでしまうのだという。卑猥な言い回しをすれば、生まれ持っている生理現象のようなもので、慣れればそれは自分の意識の支配下にあり、その能力をある程度自由に扱えるようになるらしい。
 アリス・イン・アドベンチャーズ・ワンダーランド。私はルイス・キャロルの妄想を越えた誰かの妄想に迷い込んだアリスのようです。
 彼らの話の続きをすると、能力には個々人である程度個性があり、個人の持つ能力はそれぞれ異なるらしい。そして、もう一度卑猥な例えを用いるなら、それは生理現象と同じくデリケートな事柄で、警察でもない限り、無闇に他人の能力を詮索してはならないというモラルがこの世界には形成されているらしい。
 以上が、私を逮捕した電波系警察官たちの言い分である。もう、何を言ってもそっち系の人とは会話が成立しないことは、もといた国のオタクと呼ばれる人種が証明済みである。しかし、きちんとした警察署のようなところから出入りしていたところをみると、相手が公的な警察官であることは間違いないようで、とりあえず、私は心の中だけで静かに異議を申し立てることにした。
「で、私なんでここにいるんだっけ?」
 私の心はいともたやすく電波の干渉に耐え切れなくなり、決壊して声となる。
 今目の前にある、白いテーブルクロスの中心には、見知らぬ黄色の花が入った可愛らしい小さな花瓶がある。そんな小綺麗な木製テーブルの上には、現在スープだのパンだの、まるでフランス料理のような上品なランチが並べられていた。
 で、私なんでここにいるんだっけ。
「何でって、お前拘留中だからな。それとも、留置場の方がよかったのか?」
 いいえ、いいえ、滅相もない。そのご配慮には感謝します電波さん、もとい彼の名はシンというらしい。そうです、私は拘留中の身の上、さらに記憶喪失を患っていることになっていて、どこに行ったらいいかもわからず、引き取ってもらう場所もないということで、今お二人の家庭にお邪魔しているのです。そして、ランチまで頂いてしまうという非常に気まずい状態になっているのです。
「スープが冷めないうちに召し上がって」
 取り調べの女、もといナオコは私の方を見てにっこり微笑んだ。同じくらいの歳の私に対する妬みとかではなく、純粋にさあ召し上がれというスマイルがまぶしい。
 いえいえ、ご冗談を。だって、私がお二人の家庭にお邪魔しているのも失礼なことですが、それ以前に、どう見たってテーブルの上には二人分の食事しか出てないもの。シンはすでに椅子に座っているもの。どう見ても、二人分の席しか用意されてないもの。
 私の疑問は元に戻る。
 で、私なんでここにいるんだっけ。
「あ、私は後で食べるから気にしないで」
 彼女は私の心中を察して、どうぞと椅子を引いて席を勧めてくれた。
「じゃあ、失礼します」
 一応、彼女から許可が出たので、私はそのランチに参加することにした。後で食べると言ったナオコは、麗しいエプロン姿のまま部屋を出て行く。部屋にはシンと私の二人が残った。とりあえず、私は何も喋らず黙々とランチを口に頬張る。ナオコの料理は電波さんとは思えないほど美味しく、それらは喉を通り、朝食を抜いた胃袋に直接栄養を注ぎ込んでいく。幸福感と共に、やはり罪悪感を覚える。
 すみません、あなたの温かい家庭にお邪魔して。
 私が黙って昼食にかぶりついていると、先にシンの方が口を開いた。
「公的な事情聴取では記憶喪失ってことにしといたが、あんた本当に記憶がないのか?」
 どっちなのよ、と私は思う。記憶喪失にしたいのか、したくないのかはっきりしない人だ。私はひとまず口に含んでいたものを飲み込み、そのあと水を流し込んでから答える。
「この国に来た覚えがないのは確かです」
 嘘ではない。もし、私が彼の言っていた覚えてないことすら覚えてない状態だと、百歩譲って仮定したらそういったことがありえるかもしれない。
「そうか。まあ、確かに何か企んで不法入国してきたようにはみえねえからな。俺もお前の状況はなんとなく検討がついてる」
 私はその言葉に、最初はむすっとした表情だけ返した。しかし、すぐに彼の最後の言葉が頭の中で反芻され、その疑問に首をかしげる。彼は今確かに、検討がついてると言った。
「それ、どういう意味ですか。私がここに連れてこられた理由を知ってるってことですか?」
「言葉をはき違えるな。俺はなんとなく予測がつくって言ってるだけだ」
 シンはスプーンを私にさして言う。
「まあ、これ以上は警官の俺からは言えん。万が一、お前が悪徳組織の犯罪者だっていう可能性もまだあるからな」
 最悪だ。馬の顔の前に人参をぶら下げて走らせる人間くらい最悪だ、この人。まあ、もし知っていたとしても、電波系の回答が返ってくるかもしれないのだが。
「じゃあ、私どうしたら……」
 私は斜め横を向いて小声でぼやく。なんとか自力で日本へ戻る方法を考えないといけないが、この国ではあまりにわからないことが多すぎる。そして、電波系とはいえ、少なからず彼らの保護を受けて、今なんとか生きている状態であることも否定できない。
「安心しろ。お前の身柄はしばらくここで預かることになる。この家の中でなら、ある程度自由にしていいぞ」
 シンはそう言って、手元のスープを飲み干した。それから、私がまだ食事しているにもかかわらず、立ち上がってそそくさと食器の後片付けをする。
「あ、あのう?」
「なんだ?」
「あ、いえ何でもないです」
 どこ行くんですか、と聞こうか迷ってけっきょく止めた。聞いたところで、きっと私の知らない情報しか流れてこない。シンは怪訝な顔をして部屋を出て行く。こういうときは、落ち着いて自力で考えるしかない。そう、風林火山だ。幸い、今私には時間とある程度の自由と美味しい食事が与えられている。じいっと、私は目の前にたたずむスープの中心を見つめた。何をするにも腹ごしらえは必要だ。とりあえず、冷めても美味しいランチを吟味していくことにした。





 最悪の場合、一週間ほどあの家に拘留することになるということから、私は自分の着る衣服の買出しをすることになり、ショッピングに出かけていた。シンはどうやら署に戻って仕事をしているようで、ナオコ一人に連れられて見知らぬ国のショッピングモールとやらに招き入れられていた。今、私は四角い電話ボックスみたいな白い箱の中で、ナオコの選んだ真っ白のブラウスに、紺に近い青のロングスカートを試着していた。いちおう、なんとなく予想のついていた自身の姿が鏡に映る。
 うわっ、古風。
 道すがら見てきた人たちもそうだったが、この国では中世ヨーロッパと現代日本がごっちゃになったようなファッションが多く、クラッシックな印象がうけているようだ。しかし、それに慣れない私は自分の格好がいまいち気に食わない。
「どう?」
 試着室の外からナオコの声がする。スタイルの良くない日本人体系では、ロングスカートをはくと足の短さを自ら強調しているように感じる。もとい、足の太さも。
「えっと、やっぱロングは……」
 私は最後にブラウスの上に薄水色のパーカーを羽織って、試着ボックスのカーテンをスライドさせた。
「すごい似合ってるわよ」
 ナオコは純粋に微笑んで私の格好を褒め称えた。
 褒められ慣れてない私は、不覚にもその一言だけで素直にちょっと浮かれてしまい、けっきょく、じゃあこれくださいと彼女に頼んでしまった。買ってもらった服を着て街を歩いていると、浮いてないだろうかと最初は若干不安になったが、皆似たような服装であるためか、自分の元着ていた寝巻きのジャージ姿よりはよっぽど浮いてないように感じた。
 無一文の私は、ナオコに買っていただく形で衣服を二着ほど手に入れ、その後はショッピングモールで彼女の夕飯の買出しに付き合っていた。ディナーのメニューは決まっているようで、彼女はてきぱきと野菜をカゴの中に入れていく。
「ねえ、あなた。若いっていいわね」
 私はナオコの後ろについ行きながら、八百屋の前にたたずんでいると、突然後ろから声をかけられた。しかし、私が振り向いてみたときには、声をかけてきたような人物は見当たらず、商店街を歩くただの買い物客くらいしか見当たらなかった。
 次の瞬間、唐突に私の頭をめまいが襲った。まるで、風呂場で血が上ったときみたいに平衡感覚がなくなり、目の前が真っ暗になり、何がなんだかわからないうちに私はその場に倒れた。だんだん意識も遠のいていく。耳元で声をかけてくるナオコの声はうっすらと聞こえたが、私はそれに対して頭の中では答えているつもりなのに、言葉は意識の中で反芻し、うまく口から発することができなかった。そのまま、私の意識は無音の闇へと消えていった。

 目を開くと真っ白な天井が見えた。ここはどこかで見た覚えがある。ズキンと痛む頭をひねらせて横を向くと、真っ白なカーテンの仕切りがあった。ここは病院だ。以前、シンやナオコと来たところだ。私は頭痛に顔をゆがめながら上体を起き上がらせる。ズキンと痛む頭に触れてみると、ざらざらした布の感触があった。怪我をしたのか、頭には包帯が巻いてある。そして、よく見れば左腕には針が刺さっていて、ベッドの脇に置いてある白いレジのような機械を通して点滴が行われていた。
 そうだ、私はナオコと買い物をしていて、突然めまいがして倒れたのだ。
 少しぼうっとした頭で、状況を整理してみる。貧血か何かおこして倒れた私は、病院に運ばれてきたわけだ。おそらく、ナオコが運んでくれたのだろう。多分、頭の傷は倒れた拍子に打ったものだ。
「気がついた?」
 私は突然の声にびくっと身体を震わせた。周囲を見回してみたが特に人影はない。声はカーテンの向こう側から聞こえてきた。
「血を盗まれたみたいだね」
 私は恐る恐るカーテンを開きその言葉の主を探した。
「あ」
 見覚えのある顔だった。平凡という字だけで似顔絵が作れそうな顔をしている、あの男だ。確か、記憶喪失で入院しているんだとか。
「首筋の傷が何よりの証拠だって、さっき医者が姉さんに言ってたよ」
 そう言われて首に手を伸ばしてみると、首から左肩にかけてガーゼが貼り付けてあることに気づく。
「血を盗まれたって。私が?」
 彼の日本語がわからずに私はしかめっ面をしたが、すぐに納得のいく回答が見出せた。そうか、こいつも電波さんなんだ。私の心は一歩引いた。
「あ、もしかして君も信じてない人?」
 またまた彼の日本語がわからずに、私の心は三歩引いた。
「僕は記憶喪失らしいから自分に能力があるのかすらわからないんだけど、正直、僕もこの世界の人が、みんな何らかの盗む能力を持ってるっていう話は信じてないんだよね」
 あれ、もしかすると電波さんじゃないかもしれない。ようやくまともな人間に会えたかもしれない、と私は思った。
「あんたは日本っていう国知ってる?」
「ごめん、記憶喪失だからほとんどのこと覚えてないんだ」
 私の期待には沿わず、彼はすまなそうに首を横に振った。なんだか、踏んではいけない話題に足を踏み入れた気まずい気分になった。すぐに話題を他へ移そう。そういえば、私を連れてきてくれた姉さんって誰だろう。彼の姉だろうか。私を連れてきたのはナオコさんではかったのだろうか。
「ねえ、あんたの姉さんって?」
 彼はきょとんとした顔で首をかしげた。
「もう会ってると思うんだけど?」
 彼の返答から、一つの推論が導き出される。もしかすると。
「ナオコさん?」
 案の定、彼はうなずいた。
「あんまり似てないから気付かないよね」
「性格は似てそうだけど」
 おっとりした喋り方や仕草はなんとなく似ている気がするが、確かに、これといって顔のパーツが似ているようには見えなかった。まあ、姉と弟で性別違うんだから、似てたら似てたで嫌だろうけど。
「起きたのか、お騒がせ娘」
 ノックもせずにシンが病室に入ってきた。私はお騒がせ娘という呼ばれ方にイラッときて、わざと不機嫌な顔で振り向く。
「なんか、血を盗まれたんだって、私」
「そのことはナオコから聞いてる。まあ、吸血鬼とか、そういうたちの悪いのに命狙われたわけじゃないから安心しろ。別に、お前を特定して狙ったわけでもないだろうしな」
 シンの後ろに続いてナオコが入ってくる。私にニコッと笑いかけて、彼女は私の隣の弟の元へ向かった。相変わらず麗しいその笑顔は、やはり弟と似ているようには見えなかった。
「まあ、こればっかりは気をつける方法はないからな。盗まれたときにナオコがいて良かったと思え」
 いくら電波さんとはいえ、意味不明な設定と、彼の言い方にだんだん腹が立ってくる。人が血だの記憶だのを盗む能力なんて持ってるわけがない。超ウルトラスーパー非科学的な話だ。こちとら、ただでさえ知らない国に迷い込んで困っているというのに、彼らはそれをからかっているのだろうか。
「隠さないでホントのこと教えてください。盗むって何ですか。そんな、夢物語みたいな非現実的な話を私が信じると思ってるんですか?」
 私は不機嫌な顔でつっかかる。私がめまいで倒れたのだって、きっと誰かに後頭部をぶたれたからだ。それなら頭の包帯も説明がつくし、ショックで意識がなくなったことにも説明がつく。
 シンは一瞬少し驚いた顔をしたが、すぐに元のふてぶてしい真顔に戻った。
「杉宮、夢っていうものを知っているか?」
 私はまた、彼の問いの意味がわからず睨み返す。シンは、私の返答を待たずに話を続けた。
「眠ったときに見るアレだ。今のお前の状況を例えるなら、今夢を見てるんだと思えばいい」
「何、馬鹿なこと」
 私の反論をさえぎるように彼は言葉をかぶせた。
「おそらく、意味不明で信じられないことが起きているだろうが、これはお前にとって現実じゃない。そう認識するんだ」
 シンは相変わらずの電波発言を大真面目に言う。意味わかんない。
「それができないなら、お前はこの世界から帰ることができないだろうな」
 このときの彼のあまりにまっすぐな眼差しは、私にある一つの仮説を打ち立てさせた。
 もし、すべてが本当のことだとしたら。彼らが一つも嘘をついてないとしたらどうだろう。そう、それもまた、すべてに説明がつく。盗むという能力が存在し、それを使わなければ一週間で死んでしまう。
「どうした。急に無口になって」
 だから、人々は見境なく盗む能力を使う。それで、シンはそれを仕方ないという発言で片付ける。
「杉宮さんは僕と同じ、異世界から盗まれたのかもしれないね」
 私は隣のベッドの彼が言うのと同時にその結論にたどり着いていた。アリス・イン・ワンダーランド。すなわち、私はこことは別の世界から盗まれた存在ではないのかと。
「それじゃあ、あんたも……」
 日本を知らなくてもおかしな話じゃない。彼自身、私ともこの世界とも別の世界の住人なかもしれない。
 ダメ、この思考パターンは変な宗教とかの思うツボ。疑うことから逃げてはダメ。風林火山、風林火山。
「まあ、そういうことだ。最初のお前の反応も、BCチップがないのにも説明がつく。お前は、異世界から俺たちの世界に盗まれた存在だろう」
 私はシンが言い終わらないうちにベッドを飛び降り、自分でも驚くような速さで病室を出た。そう、まるで逃げるように。
「おい、待て。杉宮、どこ行くんだ!」
 後ろからシンが呼びかけてくる。しかし、私の耳にその声が届こうとも、私の意識には届かなかった。気付いたら私の足はフル回転していて、階段を駆け下り、すぐに病院を抜け出た。周囲の患者や看護婦から痛々しいものを見る視線を感じたが、私の脳みそはそんなことを考える余裕すらなかった。考えるのは、浮かんでしまったただ一つの疑問。
 疑うことから逃げてはダメ。
 でも、何から。この世界から、それとも自分の思考から。

 病院から飛び出した私の格好は無様なものだった。服は買ってもらったもので美しく仕上がっているが、寝ていたからというのもあり、髪の毛はボサボサ。加えて、目は涙がたまってウルウルしている。極めつけは、足が裸足ということ。
「風林火山、風林火山、風林火山」
 私は祖父から教えてもらった気を落ち着かせる言葉を、まるで神にすがるかのごとく、おまじないのようにボソボソと口の中だけでつぶやいていた。
 考えてみれば簡単に行き着くはずの解答だった。一夜にして一変した世界。見えるものすべてが見たことのないものに変わり、私のうまれた土地の存在が消えた。そして、変なことを話す警察官。聞いたこともない社会のシステム。
 いいや待て、私。私はニュースも見なければ、ろくに新聞に目も通さず、よく親に注意勧告されてたじゃないか。自慢できたことではないが、変てこな国の社会システムなんて知らなくてもある意味当然。
「あの、すみません!」
 私は目にたまった涙を拭い、ある種の勇気を振り絞って道行くただの通行人を呼び止めた。呼び止められたスーツ姿の男性は、私の異様な風体に気付いてか、こころなしか身を引いた。
「あなたの盗む能力を教えてください」
 私の言葉を聞いて男は眉をひそめた。ここまでは私の予測の範囲内。次どう反応するかで、ほとんどの確証が得られるはず。
「失礼だけど、君。警察か何か?」
 とてもそうは見えないという表情で、彼は私を見下した。そう、まるで臭いものを、鼻をつまみながら見るような表情で。
「そういうこと、無闇に人に聞くのはよくないことだよ」
 男の人はそれだけ言うと、横目で流し見しながら私の前から立ち去って行った。
「すみません」
 私は今度は道路の反対側に歩いていき、先ほどから腫れ物を見るような目を向けていた女二人に同じ質問を浴びせる。
「あなた方の盗む能力を教えてください」
 どんなさげすんだ目で見られようと、今の私には関係なかった。体裁を取り繕う余裕すらなかった。ただ一つの疑問が解消できればいい。
「どこかで、見たと思ったら。あんたかい」
 女の一人が私に言った。予想外の回答だった。しかし、私には見覚えがなく、決して知り合いではない。私は、そんな回答を期待していたわけではない。私が知りたいのはただひとつだ。
 間違っているのは世界か、それとも私か。
「すまないね。一応これでもきちんと後から礼を言おうと思ってたんだ」
 女の年齢はおそらく三十路前後。化粧っけが濃く、頭はくるくるしたパーマを当てている。
「あの、ミランダさん。彼女の質問と食い違ってる気がしますけど」
 もう一人のほうの女の人も口を開く。なんだかナオコに似たような、どちらかというとおっとりした喋り方をしている。こちらも、おそらく私より年上だ。
「覚えてないかい。あんたから血を盗んだのは私だよ」
「それじゃあ……」
 間違っているのは世界ではない、私だ。
「すまないね。この歳になってもまだ加減が上手くないんだ。こう言うと言い訳みたいだけど、後から病院に見舞いに行こうと思ってたんだよ」
 ミランダと呼ばれたその人の声には、聞き覚えがある気がした。私が意識を失って倒れる前に聞いた声と同じだ。しかし、そんなこと今の私にはどうでもよかった。
「それにしても、あんた何で裸足なんだい?」
 彼女は私の足元に視線を落とす。
「逃亡者だからだ」
 答えたのは私ではなく、シンだった。走って追いかけてきたようで、肩で息をしている。彼は真っ直ぐに私を見て、手に持っていた、見慣れたオレンジ色のスニーカーを差し出した。
「ほら、なくすんじゃない。お前の靴だ」
 私の頭は混乱した。彼らが私に言っていたのは決して電波な話ではなかった。最初から気づけたはずだ。ナオコだってシンだって、こんな真面目そうな人たちが私を騙そうと企んでいるはずがない。全ては真実。そしてそれを彼らは知っている。
「おいおい、泣くやつがあるか。こんなところで」
 私のせいで、ミランダは真に不審な目を向けた。
「心配するな、俺は警察だ」
 シンはそう言って警察手帳を出して二人に見せる。
「この子はまだ病院で療養中だ。少し錯乱して飛び出しただけだから心配はいらない」
 ほら、帰るぞ、とシンは靴を私の足元に置いた。その優しさがなんだか余計に苦しかった。一度決壊した堤防はもう押し寄せる波を防ぐことができない。こんなだから、女の子はやれ泣き虫だとか、やれ弱々しいとか思われるのだ。
 そんな自己嫌悪にさいなまれながら、私はしばらく泣き止まなかった。





 その日は、一晩病室で過ごすことになった。シンが私に気をつかって家に戻ってもいいと提案してきたが、少し一人で考え事もしたかったため、傷が痛むからという理由で一晩だけ病室にとどまることになった。
 どうやら、この国で誰もが持つ身分証明にもなるBCチップを身体に埋め込んでない私は、シンとナオコの気づかいにより、彼らの家族という偽造報告によって入院させてもらっているようだった。そのため、あの平凡男、名をハルという男と同じ病室で一晩明かさなければならなかった。けれども、あの甲斐性なしの男は、失意の私の雰囲気を察してか、変な気を起こすどころか、朝になっても話しかけてすらこなかった。
 頭部に負った外傷もたいしたものではないため、結局、私は次の日の朝には病院を退院することになった。朝食を終えて、ぼうっと髪を手ぐしで梳いていると、茶色い警官の制服を着たシンが迎えに来た。私はほぼ無言のままシンに連れられて病院を出て、彼の車に乗りこみ、ナオコの待つ家へと向かった。
 ハンドルを握って顔を前に向けたまま、シンは後部座席の私に話しかける。
「後で、あのミランダとかいう女がお前に謝罪しに家に来るらしい」
 ああ、そういえば後で見舞いに行くとか言ってたような。
 私は反応せずに窓の外をぼうっと眺めた。車は見たこともない交差点を右折し、レンガ造りの建築物が立ち並ぶ町を走り抜けていく。見た目はちょっと中世、でも技術は近未来並み。こんな町、私の住んでた世界に存在するはずがなかった。
 うつろな目で、窓の景色ばかり眺めていると、いつの間にか車は見覚えのある一軒屋にたどり着いた。家の前には黄緑色の軽自動車っぽい車が一台駐車していて、その少し後ろあたりにシンは車を縦列駐車する。
「もう来てるみたいだな。俺は仕事があるからこのまま行く」
 私は車から降り、シンと目を合わせないよう逸らしながら、おじぎをするような格好でドアを閉めた。それから、もう一度シンに向かって会釈をし、反転してナオコの待つ家へと重たい足を運んでいった。入り口のインターホンを押すと、すぐにひらひらしたエプロン姿のナオコが姿を現した。
「おかえりなさい」
 ナオコはニコッと微笑んで、私の背中に軽く手を添えて家の中に入るよう促した。そのまま、ナオコに連れられあの綺麗に整頓された居間に通された。白いクロスの敷かれた木製のテーブルの上には、ソーサーにのった可愛らしいマグカップが三つ置かれていた。
「待ってたよ」
 四つある椅子のうち二つには、昨日の出くわした二人が座っていた。片方はミランダという名だったが、もう片方はわからない。私は軽く会釈をして、カップの置いてない席に座る。
「普段は知り合いに血をもらってるんだけど、二ヶ月に一回くらいは一般の人から盗まないと間に合わなくてね。血の気の多い若い子中心に狙ってたんだけど、あんたみたいに倒れた輩は初めてだよ。加減したつもりだったんだけどね」
 ドラキュラ。私の世界では吸血鬼のことをそう言う。血を盗むなんて、まるでドラキュラの仕業のようだ。それが法に裁かれることなく、平然と行われるのがこの世界だ。この女の人のどうどうとした風体が、それを物語っている。
 私が黙っていると、もう片方の女の人が立ち上がって私のそばに歩み寄る。それとほぼ同時に、ナオコが私用のコーヒーを持ってきた。私の前にそれを置き、彼女は自分の席に座る。
「えっと、昨日会ったんだけど。いちおう、はじめまして。ローラって言います」
 そう言って軽い自己紹介を終えた後、彼女は私の横にしゃがみこんだ。私がなんだろうと怪訝な顔で彼女を眺めていると、彼女はすっと手を伸ばし私の額に触れようとする。私は驚いてビクッと身体をのけぞらせた。
「ごめんなさい、ちょっと我慢しててもらえる?」
 ローラは慌てて手を引っ込め、それからもう一度私の額に手を添えた。彼女は目をつむって何かつぶやいた。しかし、その内容は短くて聞き取れなかった。何かのおまじないだろうか。優しそうな人だし、シスターとか巫女さんみたいな人なのだろうか。
「はい、おしまい。これで、傷は治ったはずよ」
 彼女は立ち上がって、私の頭に巻いてある包帯をほどいていく。私を包む彼女の身体から、ふんわりといい香りが漂ってきた。
「まあ、この子が借りを返したってことで、おあいこにしてくれよ」
 ミランダはそう言って立ち上がる。私には何を返してもらったのかわからないが、おまじないにはそれなりの価値があるらしい。どうせ、血を盗まれたことを責めるつもりもなかったので、私は素直にうなずいた。
 納得した様子の私を見てから、ミランダとローラという女性二人は立ち去っていく。ナオコは玄関まで見送りに行き、その後、居間に戻ってくる。
「あの二人って、姉妹とかなにかですか?」
 昨日も仲良さげに一緒にいたので、なんとなく疑問に思ったことをナオコに尋ねる。
「仲は良いみたいだけど、姉妹じゃないわね」
 ナオコはテーブルに残ったコーヒーカップを片付けながら答えた。
「なんでわざわざ謝りになんか来たんですかね」
 言わなきゃバレないのにと、ちょっと思う。
「そうね。この国ではね、盗むことは正当化されてるわ。だから、人を殺めたりしない限り罰せられることはないの。そういった中では、ああいう人たちは希有に見えるかもしれないわね」
 私の住んでる世界では盗むことは重罪。だから、正当化されているとはいえ、それを受け入れるような考え方は簡単には理解できない。しかし、ナオコの話が本当なら、この世界の、少なくともこの国の大半の住人がそういう考えなのだろう。
 なんだか怖い。だって、盗むということは少なからず人を傷つけること。自分が、いつでも誰かから何かを奪える力を持っているなんて、それを行使できることが当たり前な世界なんて、ちょっと悲しい。
「杉宮さんはどっちかしら」
 ナオコはテーブルクロスを整えながら意味深な笑みを浮かべる。こういうところが美しい女性の秘訣なのだろうか、とちょっと思う。私は答える代わりに逆に質問を返した。
「ナオコさんは、何の能力持ってるんですか?」
「何かしら。今度また、当ててみてね」
 ナオコは微笑みながらごまかし、自分のカップを片付けに台所へと消えていった。やはり、失礼な質問だっただろうか。
 考え事をしながら頭に手をやり、ぽりぽりと後頭部をかいたとき、ふと頭が痛くないことに気づいた。ぽこりと大きくなっていたコブがない。もう片方の手も持ってきて両手でまさぐってみたが、やはりコブも腫れも見当たらなかった。私には、すぐにその原因が思い当たった。さっきのローラって女の人が、私のおでこに手をあてたとき傷を盗んでいったのだ。なんてお人好し。友人の借りを返すために、わざわざ他人の傷を盗むなんて。
 私は出されたコーヒーを飲み干してから、立ち上がって台所に向かう。ナオコは昼ごはんの準備を始めていた。まな板の上に、刻まれた野菜が積まれている。
「ナオコさん。能力で盗んだモノって、盗んだ人のモノになるんですか?」
 ついこの前まで電波だのなんだのと思っていたので、自分がこういう発言をするのは、自分でも少し妙な気分になる。
「そうね。盗んだ人のモノになってしまうわ」
 そうなると、ローラは私の負っていた傷を、私の代わりに負ってしまったことになる。なんでだろう。それは、すごく納得がいかない。
「ローラさん、どこに住んでるんですか?」
「ローラさんなら中心街でパン屋をやってるわよ」
 ナオコは私の質問の意図がわからず、料理する手を止めてきょとんとした顔をする。
「あ、ローラさんって私の傷を盗んでいったんですよね。ちょっと、気になって」
 ちがう、なにごまかしてるんだろう私。気になっているんじゃなくって、気に食わないのだ。自分のせいで誰かが傷つくのが。
 ナオコは一瞬だけ困った顔をしたが、すぐにいつもの笑顔に戻って答える。
「そうね。それじゃあ、お昼ご飯を食べたら会いに連れて行ってあげる」
「よろしくお願いします」
 私は軽く礼を言い、それから同じキッチンに立って彼女の料理を手伝うことにした。さすが主婦といったところか、ナオコは普通に料理が上手く、私は手伝ったというよりは、ほぼ邪魔をしていたに等しかった。

 ローラの家を訪ねる前にナオコから教えてもらった情報によると、ローラは幼いときに病気で母を亡くし、だいぶん長い間シングルファーザーだったらしい。下に弟が一人いるが、気の毒なことに母親と同じ病にかかり、すぐに命の心配があるわけではないが、今は病院で入院生活を送っているようだ。
 ローラの店は歩いていける程度のところにあった。見た目は、橙色系のレンガに囲まれた小さなパン屋といったところだろうか。商店街の交差路の角に位置し、周囲にお腹のすきそうないい匂いをふるまっている。外見からもわかるが、横幅四メートル弱とあまり大きな店ではなく、経営自体も彼女と父親の親子二人だけでとり行っているらしい。店の中に入ると、イースト菌とバターが奏でるふんわり濃厚なシンフォニーが周囲を包んだ。ナオコは入り口からすぐ左手にあるトレイとトングを手に取った。
「欲しいパンがあったら言ってね」
「はい」
 私は小さくうなずき、店内をぐるっと見回す。店の壁沿いの棚にずらっとパンが並んでいる。基本、薄い肌色っぽいものから茶色、黄色系だが、中にはイチゴ味だろうか光沢を放つ桃色のパンも見られた。パンの種類は、長い食パンからドーナツ、ロールパンやメロンパンみたいなやつと、あまり私の住んでいる世界と変わらないものだった。店の奥のカウンターでは、白いスカーフを頭に取り付けたローラが接客していた。ナオコと同じように、愛想笑いではなく、心から笑っているような顔で。
 私にはできないなあ、とちょっとひがむ。
 ナオコは食パンを四分の一斤トレイに乗っけて、他のパンを物色していた。さすがに、私はさっき昼ごはんを食べたばかりなので、あまり興味がわかない。そういえば、ナオコはきちんとご飯を食べたのだろうか。さっきの昼ご飯では、彼女は何か用事があるとかで居間から去っていったので、私一人で食事をしていた。
「ローラさん」
 接客が終わり、ローラが客に対し礼をしたのを見計らって、私は彼女に声をかけた。
「あの、頭大丈夫ですか?」
 言ってから、あれ、これ失礼かなと思う。これだけだと、なんかローラさんの頭がおかしいみたい。案の定、彼女は少しきょとんとした。
「私の傷を盗んだんですよね?」
 言葉足らずの部分を付け足すと、やっと理解されたようで、彼女はにっこりと笑いながらうなずいた。
「ごめんなさい、勝手なことをしたかしら」
 彼女は謝っているわりにあまり悪びれた様子はない。悪い人ではないのだろうが、短気な私は少しカチンときた。
「もっと謝ってください」
 私は口調を強くし、口を尖らせる。幸い、今店の中にいるのは私たちの他にはナオコさんだけなので、私が怒鳴っても他の客に迷惑がかかることはない。
「私は、あなたに借りをつくる義理はありません」
 そう、意味わかんない。ある人には勝手に襲われて、勝手に謝られ。ある人には勝手に貸しをつくらされる。みんな少し自分勝手過ぎやしないだろうか。
「義理なんて思わなくていいのよ。治りかけの軽い傷だったし、盗ませてもらえるように私からミランダにお願いしたの」
 そういうことじゃないんだけど。血とか傷とか、私の許可ないところで勝手に盗まれてるのに腹が立ってるんだけど。
「まず盗むことをキチンと説明して欲しかったです。勝手に持っていかれたんじゃあ、こっちが迷惑です」
 私がそう言うとローラはなぜかクスクスと微笑んだ。からかっているわけではない。なんだろう、この透き通った笑いは。
「ごめんなさい。あなたみたいに私のところまで文句を言いに来る人なんて珍しいから」
「えっと、すみません。ずけずけと……」
 なぜか私が悪い気持ちになり、逆に謝ってしまった。おかしい、怒りに来たはずなのに。
「いいかしら、もう?」
 いつの間にかトレイにパンを並べたナオコが、私の斜め横に立っていた。
「たくさん買うんですね」
 私は盆に乗った菓子パンたちを見る。チョコのかかったディニッシュに、ぶどうパンっぽいもの、ドーナツ、加えて食パンが四分の一斤。
「夕飯にちょうどいいと思って。シンさんはパンが好きだから喜ぶと思うわ」
 一人増えたしねと、意味深に彼女は微笑んでカウンターにトレイを置いた。私は再び気まずい気分になった。自分より優しくて気立てのいい女性は苦手だ。どうにも振り回されてしまう。無闇に怒りの感情をぶつけると、さっきみたいに自分が悪い気分になるし、迷惑をかけられるよりも迷惑をかけてばかりだ。
 自分勝手なのは私のほうだろうか。

 ナオコさんの目論見どおり、シンは菓子パンをかなり喜んで、結局私のぶんまで平らげた。もともと、私は夜にあんまり糖分取りたくなかったし、ナオコさんはまた用事とやらで食卓に来なかったので、それで丸く収まった。
 ナオコの用意した夕飯をつつきながら、私は今日のシンとわかれた後の出来事の話をした。家に戻るとミランダとローラがいたこと。ローラのパン屋に行ったこと。彼女に文句を言ったこと。
 最初はシンと話すのにまだ抵抗があったが、彼がわりと気にしないタイプの人のようで、今日私が泣いたところの話題などはあまり触れないでくれたので、次第に普通に話せるようにまで私の気持ちは持ち直した。
「気にしすぎなんだよ、お前は」
 シンは私用だったぶどうパンを頬張りながら説教する。
「誰かに何かを知らないうちに盗まれるなんて日常茶飯事だ。そんなの気にしてたらキリがないだろ。それに、傷を盗んでくれるなんてありがたい話じゃないのか。こっちも助かるし、相手も助かってんだ」
 なんて肯定的な考え方。でも、それは私の世界じゃあ……、少なくとも私の中じゃあ正しくない。
「なんだ、俺がお前のドーナツ食べたのがそんなに気に食わないのか?」
 シンは自分の平皿から半円のドーナツを取り出してとぼけてみせる。対して、私は呆れ顔で嫌味っぽくそれを否定する。
「違いますう。ドーナツは元々ナオコさんのですう」
「そうか、じゃあそんなふくれっ面するな」
 せっかく乗ってあげたのに、シンはあっさり流した。私は小さくため息をついて、シチューの中の人参をすくう。そういえば、ナオコさんは何の用事があって食事に出てこないのだろう。
「あの、ナオコさんって今何してるんですか?」
「あいつは、仕事に出てる。定期パトロールってやつだ。それより、お前自分の世界に帰るにはどうしたらいいと思う?」
 シンは端的に答え、話題を変えた。何か隠しているのだろうか。とりあえず、彼の質問には首を横に振って否定した。
「わかりません。そもそも、来た方法もあいまいだし」
 異世界の住人を盗むなんて突飛な能力がこの世界の人間にはあるのだから、変えるための能力もありそうだが、右脳の弱い私にそんな想像力はない。検討もつかなかった。
「俺は仕事柄他人の色々な能力を知っててな。その中にもしかしたらできるかもしれない能力がある」
「何ですか?」
 もったいぶらずに教えてください。ていうか、なんでそういう大事なこと早く言わなかったんですか。
「非現実を盗む能力だ」
 難しい単語が出てきた。シチューを口に運んで味わいながら考える。まず現実とは今起こっていることだから、非現実とは今起こってないことだ。すなわち、起こるわけがないこと。
 私の頭で変換し意味を理解するには少し時間がかかった。
 そう、まさに今の私の状況がそれにあたるのではないだろうか。……あれ、でも今起こっていることに変わりはない。
「おい、何ぶつぶつ言ってんだ?」
 シンは不審者を見る目つきで私を見た。シチューを堪能していたはずの口は、気づかないうちに独り言を発していたようだ。
「えっと、要するにどうしたらいいんですか?」
 シンは口を半開きにし、さらにあきれた顔をした。もう、声に出してなくても、うわぁって言いたいのがよくわかる。
「俺がお前に現実を忘れて欲しくなかったって言ったらわかるか?」
 いいえ、さっぱり。
「じゃあ、今お前が置かれてる状況はどっちだ。現実か、それとも非現実か?」
「現実です」
 あ、違う、と思ったときにはもう手遅れだった。弾みで出た私の回答に、シンはあきれ果てて頭をたれた。
「望みは潰えたな」
「すみません、間違えました。非現実ですね」
 シンは顔を上げグラスに入った水を飲む。それから、平皿のドーナツを掴んで話を進めた。
「そうだ。お前が非現実だと認識しているうちは、それを盗んでもらえば、もしかしたら現実に戻れるかもしれない、と俺は考えてたんだが」
 その説明ならよくわかる。確かに現実に戻れそうだ。そうなると、私は今のこれを非現実と認識しなければならない。
「もしかして、私がシンさんたちを疑ってるの知ってて、わざと放置してたんですか?」
 シンは目をそらしながらうなずく。
「最初にお前を見つけたときから、記憶喪失か異世界から飛ばされてきた人間だという予測はついていた。特にお前の場合、着ている服装が妙だったから、ほぼ後者だと思ってたんだけどな」
 シンは私に良いように思われながらも、黙って私のために解決策を探してくれていたのだ。そうすると色々なつじつまが合ってくる。私の身柄を保護してくれているのも、知り合いの医者のところで家族という扱いを受けさせてもらったのも、私にスニーカーを届けてくれたのも。全部、私のためだった。
「シンさんもローラさんも、みんな勝手なのよ。一言私に言ってくれれば、私だって馬鹿じゃないし理解できるのに」
「おい、もう泣くな。シャキっとしろ」
 シンはいつものまじめな顔で私をまっすぐ見ながら言う。
 そうえいば、おじいちゃんにも泣いているときに同じようなことを言われた気がする。メソメソするなと、いつも凛として華やかであれと。
「泣いてないです」
 この国の人たちはみな、優しいのに寂しい人たちだ。





 私が盗みの国のアリスになって三日が経った。赤の女王とか、チェシャキャットやハンプティダンプティに出会ったわけではないが、色んなお人好しに出会った。誰しも盗みという能力を持っていて、それぞれがそれに苦労しながら生きているようだが、下手したら、私の住んでいた日本よりも住み心地のいい国なのかもしれない。
 こうやって一人妄想にふけっているのも、今日はシンもナオコも仕事に出ていて、私一人だけで過ごすことになっていたからだ。私は街に出かけ、商店街の裏の川の近くにある屋外喫茶で、頼んだランチが運ばれるのを待っていた。
「お客様、ご注文のランチセットになります」
 私は運ばれた料理を見る。入れたてのコーヒーが一杯に、大きな野菜とお肉のサンドイッチが二つだ。とりあえず、シンから預かったお札一枚で買える料理をと頼むと、こういうことになった。
「いただきます」
 私がサンドイッチを頂こうと手を合わせたとき、ヘンテコな機械がこちらに向かって歩いてきているのが目に入った。四角い胴体に四角い頭、パイプのような手足を振りながらこちらに向かってくる。ひどく不恰好。ロボットだろうか。
 柵の前まで来て、意外と身軽なジャンプし、私のテーブル横にある店の柵の上に乗って私に向かって手を伸ばした。
『おい、お前』
 ノイズ交じりの電子音で私に向かって声をかけてくる。距離にして木製の柵まで三十センチほど。手を伸ばせば簡単に触れられる程度だった。
『お前、BCチップ付けてないだろう。だから、そんなぶくぶく太ってんのか?』
 一瞬間を置いて、私は反射的に手を伸ばし、そいつにグーで鉄拳を食らわせた。そのロボットは簡単に柵から落ちて、ガシャリと金属音を響かせた。
「うるっさいわね。だいいち、そんなに太ってないし!」
 私は生意気なロボットに叱責する。しかし、私の予想に反しロボットは反論してこなかった。ノイズ交じりの電子音が、意味不明なメロディを奏でている。私は気になって、手に持っていたサンドイッチをいったん皿に戻し、椅子から立ち上がって柵の向こうを覗きこんだ。
「あれ、壊れちゃった?」
 六か七十センチほどしかない高さから落下して、ロボットは飛び降り自殺したみたいな格好で仰向けに寝て手足を投げ出し、起き上がれなくなっていた。ぎこちなく手足を動かしているが声が出なくなったようだ。ピーピーと電子音で何か私に訴えてきている。仕方がないので私はロボットを拾い上げて、椅子の上に乗っけてやった。
「ピーピーうるさいから、あんま喋んないでくんない?」
 私がロボットに言うと、ロボットはさっきにも増して騒音を発しはじめた。
「ちょっと、やめてよ」
 どうせろくでもないこと言ってるんだろうが、何言ってんのかわからない。こうギャーギャー騒がれると、だんだん周囲の人の視線を感じはじめた。
「ちょっと、わかったから。あんた直せばいいんでしょ?」
 そう言うとロボットはぴたりと騒ぐのを止めた。
「おとなしくして待っててよ。ご飯食べたらちゃんと連れてってあげるから」
 私はロボットの隣の椅子に腰を下ろし、再びランチに取りかかる。しかし、私が座ってサンドイッチをつかむと、再び横の機械人形はギャーギャー騒ぎはじめた。
「ちょっとくらい黙ってなさいよ」
 私はロボットの横で鉄拳を振るうフリをした。すると、途端にぴたりと騒ぐのを止めておとなしくなった。
 こういうのを抑止力と言うのだ。あれ、ちょっと違うかな。
 なんにせよ、どうにもこの世界に来てから不幸ばかりが舞い込んでくる。シンがお騒がせ娘と私を呼んでいたが、こんなとこ見られたら再び言われるに違いない。見つからないうちに、せめて今日中に内密に処理しよう。

 BCチップとかいうICチップが身体に何の働きをしているのかとか、詳しいことは知らないが、もしダイエット効果があるならすごいものだ。シンたちの話では個人情報の認証に使われているという話だったが、このロボットの言うことを信じるなら、それ以外にも画期的な能力があることになる。
 私はヘンテコなロボットを抱えて、軒の上に鉄板でできた看板が立てられている、クロガネ工房というところを訪れていた。というのも、このロボットのお尻のあたりに、クロガネという刻印があったからだ。
 中心街からは少し離れているが歩いて二十分程度なので、まだなんとか迷わず帰れそうな場所だ。住宅街の中にある小さな工場で、錆だの油だのの臭いが漂ってくる。中からは何かの機械が動いている音がするので、一応営業はしているようだ。
 ぱっと見た感じ、ひどく古めかしい。それに、汚い。表には大きなモノを出し入れするためか、黒い染みがところどころに目立つ大きいシャッターがあり、その横に劣化したプラスチック板の黄ばんだ窓がついているドアがあった。どうやら、このドアが入り口のようだ。
 私はドアを二度ノックする。しかし、反応はない。おそらく、工場内の機械音がうるさくて聞こえないのだろう。私はノブをにぎり、錆ついて引っかかりのあるドアを、少し力強く押し開けた。とたんに機械の喧騒が耳に飛び込んでくる。天井が高いせいか外から見たよりも中は広く感じた。しかし、その大きなスペースを埋め尽くすように、私の背ほどもある機械がところ狭しと並べられ、ガレージと思われるシャッターのある搬入口の近く以外は、大手を振ってあるいたならたちまち機械にあたるだろう狭さだった。
 工場内を機械をかき分けるように少し進むと、白髪のオールバックのお爺さんが、しゃがんで何かの作業をしている姿が見えた。下は作業着のズボン、上は紺のTシャツ姿で首にはタオルを巻いていた。典型的な大工の格好だ。
「こんにちは」
 機械の音にまぎれて聞こえないといけないと思い大きな声を出したつもりだったが、私の努力虚しく聞こえなかったようで、お爺さんは無視して作業を続けた。
「こんにちは!」
 私はもう少しボリュームをあげて声をかけてみる。しかし、まだお爺さんには聞こえてないようで、その白髪頭が振り向くことはなかった。私は何をしているのか気になって背伸びしてのぞき見てみる。黄色い金網で囲まれた大型機械の前に座り込んでいて、彼の視線の先にはその機械のものと思われる配線が無数に伸びている。私は、今度はその背中の一歩手前まで距離を詰めて声をかけてみる。
「こんにちは!」
 やっと聞こえたらしく、ゆっくりとお爺さんは振り向いた。それから、私を見るなりしかめっ面で怒鳴りちらす。
「バカ野郎、何勝手に入ってやがんだ。ここはガキが遊びに来ていいとこじゃあねえんだよ!」
 私は一瞬で理解した。このロボットを作ったのは、この人手間違いないや。
「これ、ここのものですよね?」
 私はピーピーうるさいロボットを差し出す。すると、お爺さんは私を変なものでも見るような目つきで見た。
「なんで、お前がこれを持っとるんじゃ。しかも、壊れとるじゃないか」
 よかった。とりあえず、ここの所有物で間違いないようだ。
 機械の喧騒に負けないようにしているのか、さっきからこのお爺さんかなりの大声で話しかけてくる。なんか怒られてるみたいでちょっと嫌な気分だ。私も負けじと少し大きめの声で反論することにした。
「ちがいます。勝手に私の前に現れて、勝手に壊れたんです!」
「うるせえな、でけえ声出すんじゃねえよ」
 うるさいのそっちじゃん。私の顔は引きつった。
「ここじゃあ、周りの音が邪魔でまともに話もできねえ。表へ出ろや」
 なんか言い方がいちいち喧嘩腰な人だ。
「あ、いいです、別に。私これ返しに来ただけなんで」
「こっちだ。ほれ、はやくせんか」
 お爺さんは、私の入ってきた入り口のほうに一人先に歩いていきながら叫んだ。
 聞こえてない。私の顔は二度目の引きつけを起こした。こういうときこそ風林火山、風林火山。

 お爺さんの名前はイガといい、近所の人やお客さんからはイガじいと呼ばれているらしい。ちなみに、クロガネ工房のクロガネとは鉄のことだとか。
 ノーと言えない日本人、杉宮文目は長々と口の悪いお爺さんの話を聞いていた。
 彼の話によると、この世界にはすでに精巧な人型ロボットが作られているそうだ。さっき出会ったロボットは外見こそ小さく人ではないが、それにしては歩く跳ねる話すとよくできている。あれより数倍性能のいいものが、すでにサービス業の企業のみならず、一般家庭にまでも進出しはじめているらしい。
「なんで、このロボット口が悪いんですか?」
「そりゃ、飼い主に似たんだろうな」
 がはは、と大きな声を上げて笑う。幸いここは住宅街なので中心街ほど人通りはなく、このイカツイ老人と話していてもじろじろ見てくる人の数は少なかった。
「それじゃあ、私……」
 用事があるんで、と言いかけたとき、イガじいの視線は私の後ろに移った。
「おう、帰ってきたのか?」
 振り返ってみると、スケッチブックを片手に持った少年が立っていた。にっこり微笑んで私を見てお辞儀する。私も慌ててお辞儀をした。少年はニコニコしたまま何も言わずに、工場の中へ入っていった。
「えっと、お孫さんですか?」
「いいや、ちげえよ。あの子がわしに似てるように見えたか?」
 いいえ、ぜんぜん。むしろ、似なくてよかったんじゃあないかと。
 イガじいは少年の入っていった工場の入り口のドアを見ながら話す。
「あれはわしの養子だ。孤児院から引き取ったんだよ。口が不自由だからあんなスケッチブックなんか持ってやがる」
 持ってやがるって、口が不自由なら仕方ないでしょ。
「手話とか教えないんですか?」
「手話なんかなくても、あいつは話せるんだよ。自分で口を不自由にしちまっただけだ」
 イガじいは持っていたロボットを足元に下ろし、突然座り込んで腰に取り付けた工具を手に持ち、壊れた分身の修理を始めた。
「お前さんが自分の能力で悩んでいるかはわからんが、あいつは昔自分の親を能力のせいで亡くしてな。それ以来、自分の能力を恨んで口を利かなくなったらしい。医者はもうほんとに声が出せないかもしれないって言うが、わしは信じとらん」
 さすが工場の主といったところだろうか。イガじいのロボットを修理する手の動きは実にコンパクトでシンプルだった。ほとんど、一瞬で修理が終わり、開けていたロボットの腹を閉じ、最後にその蓋の四隅のネジを締めた。
「声を出さんから、学校に通っていてもまともな友達もできんわけだ」
 見たところ小学生といったところだろうが、あの歳で友達がいないのはちょっとつらい。
「だからせめて、遊び相手にと思ってな」
 イガじいは修理し終わったロボットを満足げに見た。ロボットは自分で手足の動作を確認するように動かし、私の足元までやってくる。
『おい暴力女。よくも俺を突き落としやがったな』
 ロボットはそう言うなり、スカートの上から私のふくらはぎをつねった。私はすぐに足を動かし、かかとで軽く蹴り飛ばす。ロボットはガチャンという金属音を立てて仰向けに倒れた。
「おいおい、直したすぐに乱暴に扱うやつがあるか」
 言いながらもイガじいはげらげらと腕を組んで笑った。
『おい、クソ尼。BCチップもないくせに反射神経はいいってか。暴力反対だコノヤロー』
「あんた、言ってることとやってることが矛盾してるわよ」
 私が眉間にしわを寄せてにらんでいると、視界の隅で笑っていたイガじいが、急にまじめな顔になった。
「おい、お前さん。BCチップがないのか?」
 しまった、と思った。BCチップはこの国に入った人間すべてが身につけているはずの身分証だ。それを、つけていないのは不法入国の者、もしくは犯罪者だけだ。
「え、えっと。ちがいます、このロボットが言いがかりを……」
 われながら苦しい言い訳だと思った。普段堂々と喋っている人間が急にどもるとか、バレバレである。というか、なぜこんなロボットがそんなこと知っているのだろうか。エスパー。まさか。
「こいつはBCチップを判別できる能力があるんだ。まあ、ここいらのロボットならだいたい当たり前だ。主人を見分けれないと意味がないからな」
 私の言い訳はあっさりとイガじいに否定された。続いて、調子づいたロボットが再び私に戦線布告する。
『そうだぞ、嘘つき女。俺様はBCチップの判別どころか、体調から精神状態、スリーサイズなんてのもわかる、できる男なんだぜ』
「馬鹿野郎!」
 しかし、今度は私が蹴り飛ばす前にイガじいが蹴っていた。ロボットは今度は正面から倒れ、再びガチャリと今度は大きな金属音を立てる。
『痛えな、コノヤロー!』
 無事だったようで、ロボットは起き上がりながら、今度は矛先を主人であるはずのイガじいに向ける。
「違法行為を堂々とバラすやつがあるか!」
『んなもん、作ったてめえの責任だろうが。だいたい、人間の体調だの心模様だの見ても俺はちっとも楽しくねえんだよ。そんなこといちいち俺が知るか、クソジジイ!』
 イガじいは腰からプラスドライバーを取り出し、空いたもう片方の手でロボットをわしづかみにして持ち上げる。
「二度と反抗できないようプログラムしなおしてやろうか?」
『すみませんでした』
 ロボットはさすがに製作主には逆らえないようで、素直に反省して謝った。一応、謝るという行為はプログラムされてるようだ。
 なんだか、二人の様子がひどくおかしくて、私は声に出さないようにしながら含み笑いをした。
「なあ、話は戻るが。あんたBCチップをつけてないなんて本当か?」
 私はもう隠しても仕方がないと思い、素直に小さくうなずいた。すると、イガじいはついてくるよう手招きする。
「ちょっと、工場へ入れ。いいものをやろう」
 彼は一人先に歩いて行き、工場へ入っていった。それを追いかけるようにロボットも走っていく。私は少し迷ったが、話をするかぎり悪い人ではなさそうなので、ひとまずついて行ってみることにした。
「あの、何くれるんですか?」
 後ろから声をかけたが、聞こえてないのか返事はなかった。しかたなく、黙ったままイガじいの後ろをついて工場内を移動する。自動で動いている工場機械たちの間をかいくぐり、最終的に、工場内の設計室と表札のある個室に連れていかれた。イガじいは部屋の隅にある金属の棚をあさる。
「あのう、何探してるんですか?」
「偽造BCチップだ」
 イガじいは、そう言って上から順に引き出しを開けていく。
「あんたはBCチップが何のために作られたか知ってるか?」
「ダイエット、のため?」
 迷いながら放った回答を聞いて、横にいたロボットはゲラゲラと爆笑した。私はそいつを左足で蹴りとばす。
「そうだなあ。もともとの目的は、そういう子供の夢みたいなものだった。BCチップはそもそも医療目的で作られたんだよ。作ったやつも身分証うんぬんなんて、最初は考えてなかったはずだ」
 医療、ということはダイエットもあながち間違ってはなく、もしかするとホントに可能なのかもしれない。
「BCチップは脳から命令を送るみたいに、外部から直接身体に影響を与えることができる。だから、不治の病と呼ばれた病気も多くは治療が可能になった。まあ、人の寿命だけは、どうすることもできないようだがな。そのうちに、BCチップは改良を加えられ、ウイルスや細菌に対して抗体能力を高める機能とか、ストレスを解消させるため快楽物質を多く脳に送る機能とか、身体・精神共に健康管理までできるようになった」
 そういえば、BCチップというものが身分証の役割を果たしている以外に、詳しい事情は聞いたことがなかった。まさか、そんな隠れたすごい機能があるなんて。まるで、医者要らずだ。
「医療のありかたが一変した。多くがBCチップ任せになり、より多くの者が、軽い病気から難病と呼ばれた病気に至るまで、多くの病気から解放されることになった。あんたはこれをどう思う?」
「え?」
 普通に考えたら、こうだ。要するに、BCチップで多くの命が救われるようになった。それは今まで医療が目指してきたもので、すごいことであると。
 しかし、私はひねくれ者だからそうは考えない。
「不自然です」
 よくどっかのミュージシャンが歌っている。人は自然の中で生きている。だからこそ、悲しみがあって、喜びがあると。不自然の中にいたら、悲しみや、喜びも不自然になってしまう。
「不自然?」
 私の妙ちくりんな返答を聞いて、思わずイガじいは聞き返してきた。まずいことを言ったかな、と思った。しかし、乗りかかった船だ。私はとりあえず最後まで主義主張を貫く。
「そりゃあ、そんなんで簡単にダイエットとかできたら夢のようだし、実際できれば嬉しかったりするけど。私はそんなに簡単に物事が進んだら面白くないと思います。やりがいがないっていうか、トランプの大富豪で、最初からジョーカーとか2がたくさんあると、あんまり考えなくても勝てるから面白くないのと一緒です」
『どMだな』
 私は再び左足を稼動させ、さっきよりも強く蹴りとばす。そんな私を見てイガじいはゲラゲラと笑う。
「ちげえねえな。むかし、あんたと似たように考え、BCチップを持ってなかったやつがいた。BCチップがないとこの国じゃあ何もできない。生きるために、そいつはBCチップを偽造したのさ」
 イガじいは下から二段目の引き出しから、ペンダントのような紐のついたものを取り出す。
「これをあんたにやろう。壊れたロボットを連れてきてくれた礼だ」
 私はイガじいから、そのペンダントを受け取る。濃い緑の四角いアクセサリーがついている。
「電池のいらない永久機関だ。BCチップが身体にあるかのごとく反応してくれる。認証機能は今書き換えてやるから、お前の名前と生年月日と血液型を教えろ」
 イガじいは部屋の中心にあるテーブルの上の、ゴミだめみたいな工具だの何かの図面だのの山の中から、小さなパソコンのようなものを取り出した。
「杉宮文目、二十歳。2XXX年二月十八日生まれ。血液型はA」
 イガじいはパソコンに私の個人情報を打ち込んでいく。
「そうか、もう時代は二千年に突入したのか。時が経つのは早いものだな」
「もしかして、……」
 かつて、この偽造BCチップを必要としていたのは、イガじいではないだろうか。私のつぶやきに対して、彼は何も答えなかった。ゆえに、それは肯定を意味する。
「さあ、これで完了だ。それを付けてる限り、お前はあたかもBCチップを持ってるものとして認識してもらえる。まあ、少しは役に立つだろう」
「ありがとうございます」
 私はぺこっとお辞儀する。どこで役に立てるかは別として、イガじいの親切には感謝しないといけない。
「それじゃあ、私帰ります」
「家はあんのかい?」
「はい、あります」
 私は笑顔でうなずいた。根無し草の私を保護してくれた、お人好しの人たちが待っている家がある。
「そうか。まあ、その偽造BCチップで問題が起こったらいつでもここに来な。これも何かの縁だしな。わしにできることなら、なんとかしてやるよ」
 私は小さくうなずいてきびすを返し、設計室の入り口のドアノブに手をかけた。
「イガじいさんは、戻ろうと思わないんですか?」
 一応、聞いてみた。なんとなく、回答は想像できていたが、彼の口からその言葉を聞いてみたかった。
「そうか。もう、あんたは戻る方法を知ってるんだな。だがわしは、戻るには歳を取りすぎた」
 それにな、とイガじいは付け加えた。
「こっちの世界にも、捨てちゃいけねえもんができちまった。俺はまだ、あいつのことを見てやらなくちゃならねえ」
 イガじいは、工場の中で座り込んで機械をぼうっと眺めている少年を見る。少年はそれに気づいてこっちに向かって手を振った。イガじいもにっこり笑いながら手を振り返す。
「この世界じゃあな、物心つくまで自分の能力なんてわかんねえもんだ。知らぬ間に使って、いつか事故か事件が起きたときそれに気づく」
 そう、それはこの世界の掟。自分の能力に苦しめられ、自分の無能に苦しめられる。あの少年だけではない、ローラも、ミランダも、そしてきっとシンも、ナオコも、ハルも。それに巻き込まれていく私たちも。
 私はネックレスをにぎりしめた。

 私が家に戻ったのは、夕方の日が落ちかけたころだった。すでに、ナオコもシンも仕事から帰ってきていて、家の敷地内に車が駐車してあった。玄関の鍵は開いていたので、チャイムは鳴らさず中に入る。居間に入るとナオコが夕飯の準備をしていた。
「あら、おかえりなさい。どうしたの、そのネックレス?」
 どこへ行ってたのという質問よりも先に、ナオコは首からさげたネックレスに注目した。さすが、女の人はこういうところ目ざとい。
「えっと、色々あって。もらい物なんですけど……」
 どう答えていいか迷って、私は末尾をにごした。こういうとき母親ならぜったい、知らない人から物もらっちゃダメでしょ、とか言うにちがいない。
「キレイね、似合ってるわよ」
 ナオコはとくに突っ込んでくることなく、ニコニコしながら台所へと消えていった。私はなんだか肩透かしをくらった気分だった。
 しかし、シンはやはりズバズバと突っ込んできた。夕食時、彼は最初私のネックレスに気づかなかったものの、今日の出来事を話すなり、眉間にしわを寄せ面倒くさそうな顔で突っ込んでくる。
「どうにも、お前は厄介ごとを巻き込む性格らしいな。まあ、外をあんま出歩くなって言わなかった俺のせいかもしれないが」
 風林火山、風林火山。
「なんにせよ、その偽造BCチップのおかげで、これからは外ふらふら出歩いても不審者扱いされずに済みそうだけどな」
 嫌みだ。ぜったい、嫌みだ。話すんじゃなかった、とやっぱり少し後悔する。相変わらず食卓にナオコさんはいないので、中和剤となる存在がない。そのため、私の機嫌パラメータをなんとかノーマル値に維持するには、風林火山の呪文に頼らざるおえない。
「あのじいさんとこのガキの話は有名だが、まさか、じいさんがお前とおんなじ世界から来ていたとはな」
 情報通の警察官も、さすがにそこまでは知らなかったみたいだ。私は少し優越感に浸った。なめるな、私の行動力をと。
「あの男の子は何の能力持ってたんですか?」
「音を盗む能力だ」
 私はピンとこなくて顔をしかめる。
「簡単に言えば、他人の聴力を盗む能力だ。盗んだ本人はその他人が聞くであろう音まで聞こえてくるが、盗まれた奴は一切音が聞こえなくなる。ガキがまだ赤ん坊のころ、まだ能力のコントロールがうまくないか、能力の存在にすら気づいてないかもしれないころ、あいつは親の音を盗んでしまったんだ。それが原因で、ガキの親は交通事故にあって死んだ」
 そうか、それならイガじいのところを、あの機械が騒音の交響曲を奏でている工場を好いているのも予想がつく。しかし、それならなぜ、イガじいはいつか声を取り戻すなんて信じているのだろう。もはや、音を盗みすぎて耳なんて聞こえないはずだ。
「どうした、アホみたいな顔して?」
 私が黙ってスプーンを噛んでいるのを見て、シンは怪訝な顔をする。
「イガじいさんは、いつかあの子の声が戻ると信じてました。でも、生きるためには盗み続ければならないじゃないですか。そうなると、あの子の耳に届く騒音は一生消えることはないですよね。私にだって無理だってわかるのに、なんでかなあって思って」
「お前、アホみたいな顔したアホだな」
 意味わかんない。なんで二回言ったのよ。
「何も音を盗むのは人からだけじゃあねえ。もっと、虫みたいな聴力の弱い者から盗めばいいだろ」
「え、じゃあもしかして、あの子すでに聞こえてるとか?」
 シンはため息だけついてうなずかなかったが、おそらく私の見解どおりだ。
「じゃあ、聞こえてるのに、ロボットの声も、イガじいさんの声も聞こえないふりしてるってこと?」
「そうだろうな」
 意味わかんない。
「なによ、それ。そんなのおかしいじゃない」
「お前はアホか」
 シンは私の気持ちをなだめるようにぼやく。
「事情があるんだよ。あのガキだって、まだ十歳そこらだ。ゆっくり本人に考えさせる時間くらい与えてやってもいいだろう」
「意味わかんない」
 私は思わずスプーンをテーブルに叩きつけて椅子から立ち上がる。
「なんで、イガじいがあの子にロボットを作ってあげたかわかる?」
 シンは少しだけ驚いた顔をする。
「なんで、ロボットの口を悪くしたかわかる。なんで、イガじいがこの世界に残り続けているかわかる?」
 全部、あの子のためだ。
 また、私の悪い虫が発動した。私は気づいたら、夕食も放っぽり出して家を飛び出していた。自分でも少し不思議だった。遅れた反抗期だろうか。それともこの世界があまりに歪んでいるからだろうか。
 どうしてこうも、厄介ごとに首を突っ込んでいきたがるのだろうか。
 アリスは迷うのだ、盗みの国で。

 イガじいは語らなかったが、私にはわかっていた。
 ロボットの口を悪くしたのは、少年に少しでも反発してほしいからだ。怒りの感情でもいいから、声を出して欲しいからだ。あんなロボットをつくったのは、いつか関わることのできなくなる自分の代わりだ。
 飛び出した私は、夜の街をあてもなくぶらぶらしていた。夜風は意外に冷たく、寝巻きのジャージだけでは少し寒い。帰宅中のサラリーマンが多く通り過ぎていく中、私の姿は明らかに異質だった。薄いオレンジ色の街灯の明かりの下で、私はとぼとぼと歩調を緩めながら歩いた。
 自分が少年を説得に行ったところで、少年はこんな見ず知らずの女の言うことなど聞かないだろう。イガじいも、困った顔をするにちがいない。他人の決めたことに、他人が介入すべきじゃない。そもそも、介入したところで、何も解決などしないのだ。
 そう、頭ではわかっているはずなのに、私の心は納得しなかった。
 これだから、アホだのなんだの言われるのだ。
「どうしたの、夜に一人で?」
 私は最初、話しかけられても自分のことだとわからなかった。
「杉宮さん?」
 私は名前を呼ばれてはじめて自分のことだと気づき振り返る。すぐ後ろで、ローラが心配そうな顔をしていた。
「こんばんは」
 私は不機嫌な顔つきのまま、間抜けな返事をした。
「こんばんは」
 ローラはにっこり微笑んで挨拶をかえしてくれる。この人も苦手だ。自分のことをかえりみず、他人のことばかり気にかけている。
「ローラさんは、自分の能力を恨んだことありますか?」
 私の突飛な質問に、ローラは少し困った顔をするが、意外にも返答は早かった。
「あるわよ。私の能力じゃあ治せないものもたくさんあるから」
「治せない?」
 私の返答に彼女は苦笑いを返す。
「私の能力は傷を治す能力。だから、病気を治したりはできないわ」
 ちがう。私はそこを疑問に思ったわけではない。
「ごめんなさい、私、用があるから」
 これ以上話していたらどんどん気分が悪くなりそうだったので、強制的に会話を切り、私は振り返りもせずスタスタと中心街を抜けていった。
 何が能力だ。

 再び気がついたら私はクロガネ工房の前に来ていた。もう日が落ちたというのに、工房の中からは機械の音が聞こえてくる。工場の前でぼうっと立ち尽くしていると、突然入り口の扉が開き、中からロボットを抱えたイガじいが出てくる。
『ほら、いただろうがクソジジイ。俺のセンサーは間違いねえよ』
「うるせえ、黙ってろ」
 イガじいはロボットを肘で殴り、それから私を見る。おそらく、私はなんとも言えない困ったような、怒ったような、不機嫌な泣きそうな顔をしていたにちがいない。イガじいは頭をかいて私に話しかける言葉を探した。
「ユウタが来たときもこんな感じだった」
 ユウタとはあの少年の名前だろうか。
「もともと、わしは独り者だ。それに、元はこの世界の住人じゃねえ。この歳になって、結婚とか、誰か養子に迎え入れるとか考えたことなんかなかったんだよ。だが、こんな小さな工房に毎日やってくる少年がいた。そいつは話しかけても何も返さない。ただじいっと、スケッチブックを片手に、毎日毎日、工房の前にたたずんでいるんだ」
 イガじいはロボットを足元に下ろす。
「わしも最初は何の用だって声かけてたんだが、次第にそいつが耳が聞こえないことに気づいてな。わしは製図用の上等紙に文字を書いてみせてやった。何の用だ、ってな」
 そうしたら、とイガじいは微笑む。
「あいつスケッチブック越しに、工場から楽しそうな音がする、って言いやがったんだ。もとの世界に戻るすべも知らず、独り黙々と何年も機械だけ相手にして生きてきたわしにとっては嬉しい言葉だった。わしは中に入るよう促した。そうしたら、次の日からいつの間にかあいつ工場に入ってやがる。もちろん、工場内の機械は何も知らない者にとって危険なものも多い。だから、あいつがいる間は年中見張りながら仕事してたんだが、もともとそんなに動く性格でもないんだろうな。ただ、じいっと座って機械の音を楽しんでやがった」
「イガじいさん、ユウタくんは」
「わかってる。わかってるさ、あいつが耳が聞こえることくらい」
 彼はにっこり笑って私の言葉をさえぎる。
「わしはもう老い先長くはない。この世界でわしにできることなんて限られてんだ。だから、わしもわしなりに何か残したくなった。若いあんたにはまだわからんかもしれんがな」
 何かを残せる人になれ、そういえばおじいちゃんが言っていた気がする。世の中には人のサイクルがあり、受け継がれていくものがあるのだとか。だから、次の世代に何か残せる人になれと。
「あいつが、何年経ってもいい。何年経ってもいいから、声を取り戻すのを待ってみるのも、面白いじゃないか」
 酔狂な話だと思う。血もつながらない見知らぬ少年の、たったひとつのコンプレックス克服のために、その残りの人生を投げうつのだ。
 バカバカしいと思う。死ぬまでに何か残したいって言ってるわりに、死ぬまでに何か残る保障なんて何もないのだ。
 これだから、こういう考えの人はアホだのアホだのとののしられるのだ。
 私は黙ったまま一礼だけして、その場を去った。





 真っ白な天井、真っ白な壁、真っ白なカーテン。私は再び病院に戻ってきていた。ゆっくりと起き上がり、周囲を見渡す。しかし、頭を横に向けた瞬間、頭部のおでこあたりに激痛が走った。顔をゆがめながら頭を抱えると、包帯がぐるぐると巻かれていることに気づく。
「目が覚めた?」
 右側のカーテン越しに声が聞こえてきた。聞き覚えのある声だ。あの平平凡凡のハルとかいう男の声だ。
「大変だったみたいだよ。ここに着てからシンはすごく怒ってた」
 へえ、と心の中で返事をする。そう、記憶は鮮明に残っていた。昨日の晩、クロガネ工房を去ってから、シンの家に戻る途中で、私は大木にむかって自ら何度か頭突きをしたのだ。そう、意図的に。こぶができるほどに、血が出るほどに。病院に搬送された記憶はないので、意識を失って倒れたに違いない。
 ちなみに、なぜ私が木に頭をぶつける不審行動に出たかというと、この世界の掟とか、ローラの話とか、イガじいの話とかで、つくづく能力というものが嫌いになったからだ。だって、勝手に人様からモノを盗み、人様を困らせるのだ。盗む人も苦しむ人がいるが、それ以上に盗まれた人は苦しいんでいるのだ。こんな理不尽な話があるだろうか。
 イライラした私は、ローラに奪われた傷を取り返そうと、気がついたら血が出るまで、倒れるまで頭をぶつけるというアホな行動に出ていた。
 私は視界の隅に誰かの頭があることに気づく。誰かが私のベッドに寄りかかるようにして眠っていた。身体を動かして顔を覗いてみると、そこにいるのはローラだった。そうだ、私が頭をぶつけた現場に居合わせたのは、心配してクロガネ工房までつけてきていた彼女だった。うっすらとだが、頭を血だらけにして倒れた私を、泣きそうな顔しながら抱え上げてくれた彼女のことが記憶にある。おそらく、彼女が私を病院に運んでくれたのだろう。
「しゃくにさわるのよ。人様から勝手にモノ盗むなんて」
 そう、盗むという行為はたとえそれがどんな行為であろうと慈善事業にはならない。
「だから、返してもらったの」
 ローラは私の声のせいか目を覚まして、私を見上げる。
「ごめんなさい。傷をもらおうと思ったんだけど、勝手に盗むとまた嫌がると思って。私どうしていいかわからなくって」
「そうよ。覚えておいて」
 私はきつい口調でローラをにらみつける。
「私から勝手に盗んだら承知しないんだから」
 ツンデレ娘みたいな台詞を吐いていると、病室のドアが開いてシンが入ってくる。
「やっと、目を覚ましたか。お騒がせ娘」
 シンは意外にもあまり怒っている様子はなく、どちらかというと疲れた顔をしいていた。彼は一度だけ、私とローラを見比べ、私を見ながら手招きをする。
「目が覚めたら医者に様子見てもらいに行くことになってる」
 私はうなずいてベッドから降り、いつものオレンジ色のスニーカーを履く。それと同時くらいにローラも立ち上がろうとしたが、シンは手で彼女の肩を押さえてそれを制した。
「ローラはここで待っててくれ」
「……、わかった」
 ローラは短くうなずく。
「じゃあ」
 私はシンに無理やり残らされたローラに軽く手を振って、病室のドアを閉めた。シンは先に廊下を歩いて行っていて、私はそれを小走りに追いかける。走ると振動が頭に伝わって、包帯の巻かれた額がちょっと痛い。
「馬鹿野郎」
 シンは私が追いついたところで、歩きながら私の頭をわしづかみにした。
「本当なら、頭の一発も殴ってやってるところだが、怪我してるんじゃ殴れないからな。これくらいで許してやる」
「すみません、私アホなもんで」
「謝る気ねえじゃねえか」
 ちょっとイヤミを含めて謝ると、シンは再び私の頭をつかんでくしゃくしゃにした。
「痛い、痛い」
 私は目をつむってわめく。シンは反射的に手を引き、気まずそうな顔をした。
「わりい」
 シンがぼそっと小声でつぶやくのを私は聞きもらさなかった。シンも所詮は男。意外と単純な罠にはまるのだ。私は思わず吹きだす。
「嘘ですよ」
「てめえ!」
 シンは手を振り上げようとしたが、結局もとに戻した。懸命な判断だ。
「それより、お前に話がある。大事な話だ。良い話と悪い話どっちから聞きたい?」
 エレベータの前で、降りてくるのを待ちながらシンは私に尋ねる。
「私の診察は?」
 さっきは、そういう話だった気がする。目が覚めたら診察があるのだと。
「あれは嘘だ」
 シンはしれっとした顔で言った。私は苦い顔をする。エレベータはチンという音を立てて開き、私たちを招き入れる。彼は先に乗り込んだので、私もそれに続くように乗り込んだ。
「えっと、じゃあ私をどこへ拉致するつもりですか?」
「意識が回復しだい退院だ。軽い脳震盪みたいだし、頭の傷もそこまで深くはないからな」
 一階につくと、もう一度、チンという短い音を立ててエレベータの扉が開いた。
「どっちの話が聞きたいか、考えとけよ」
 シンはそう私に言い残し、ナースステーションまでかけていった。しばらくして手続きが終わったのか、私を連れに戻ってくる。
「先に良い話で」
 正直、どっちが先でもよかったが、嬉しい話は先に聞きたい気がした。私の前を歩きながら、シンは良い話の方から話し始める。
「単刀直入に言うと、非現実を盗む能力を持った人間を見つけた。そいつの所在もわかっているし、頼みに行けば多分盗んでくれるだろう」
 ホントですか、とぬか喜びしかけて、最後の推量の語が気になって言いとどまる。
「多分って、どういうことですか?」
「まあ、アレだ」
 私の悪い予感は的中したのか、シンは口を濁しながら車のキーを開ける。
「能力が能力だけに苦労してきたみたいでな。気難しい性格らしいから、まあ頑張れ」
 他人ごとかよ。丸投げですか。
「それで、悪い方の話は?」
 私は後部座席に乗り込んでから、もっと悪い話を注文する。まあ、どうせおそらく非現実を盗んだところで今更遅いかもしれないというような話だろう。私がこの今を現実と認識してしまっていたら、その時点でこの方法はお釈迦になる。そんなこと、ついこの前からわかっていることなのに、なんで今更告げる必要があるのだろう。
「お前に最初に会ったときに質問したと思うが、記憶は正常か?」
「え……、何をいまさら。きっちり、ばっちり機能してますよ」
 予想外の質問だったが、私は自信満々で答える。そんな昔の話を今引っ張り出したりして、どうしたのだろう。
「じゃあ聞くが、そのジャージとオレンジの趣味の悪いスニーカーはお前のだよな?」
「もちろん」
 私は自信満々に答える。
「それだと、俺がお前に事情聴取したときの、お前の最後の記憶と矛盾してるんだがな」
 私は、シンが何を言っているのかわからず首をかしげた。ジャージを寝巻きに着ることはよくあったし、スニーカーだって。
「あ……」
 私はシンが言いたいことに気づいてしまった。私の記憶はこのジャージ姿で寝ているところまで。決してスニーカーなんて履いているはずがなかった。
「確証があるわけじゃあないが、お前はこの世界に来たとき路上で平和に寝てたわけじゃなく、それまでの記憶を盗まれてた可能性がある」
 つまりは、私はもっと前からこの世界に来ていた可能性もあるし、少なくともこの世界に来る直前何をしていたのかを覚えていないことになる。
「それで盗んだであろう奴には心当たりがあるんだが、それを取り戻す手段には心当たりがない」
「じゃあ、その盗んだ人は私の記憶を持ってるってことですか!」
 私は思わず大きな声を出した。シンがルームミラーごしに目を細める。だって、恥ずかしいじゃない。変なことしてたらどうしよう。私いちおう女の子だし。
「その誰かは教えてもらえないんですか?」
 車は信号待ちをくらう。シンは一瞬面倒くさそうな顔をしたが、その理由は次の回答からおおよその察しがついた。
「ハルだ」
 あの平平凡凡なやつのことだ。やだ。薄っぺらくてどうでもいいやつでも、仮にも男の子に記憶が覗かれてるなんて考えたくもない。
「だが、あいつに聞き出そうにも、あいつも記憶喪失だから忘れてる可能性がある」
「他にも犯人がいるんですか?」
 いいや、と彼ははっきりと否定する。
「記憶を盗む能力はかなり希少な能力だ。それに、そんな危ない能力持ってたなら、間違いなく警察にマークされる。この国の警察の資料には一通り目をとおしているが、俺もあいつ意外にそんな面倒な能力を持ってる人間は見たことがない」
 記憶を盗む能力。確かに、自分の記憶が覗かれてると思うと、かなりいい気はしないが、生死に関わるほどのものではない。どちらかというと、ミランダの血を盗む能力のような相手の身体に直接影響を与える能力の方が、下手すると殺しかねないぶん危険だと思うのだが、この考えを言うとまたアホだのなんだの言われそうなので、ひとまず胸の内にしまっておくことにした。
「とりあえず、どうにかして取り戻してもとの世界に帰りたいんですけど、どうにかならないんですか?」
「まあ、あれだ。お前が記憶が盗まれてることに気づかないほど短い記憶だったかもしれねえし、いいじゃねえか」
 面倒ごとから逃げました、この人。
「嫌です。私これでも女の子なんで」
「それ、関係あんのか?」
 シンは面倒くさそうな顔をする。
「サイテー」
 私は聞こえないくらいの小さい声でぼやいた。シンはしっかりしてるように見えて、たまにデリカシーがないことを言う。
「悪い話の続きだが、それに加えてもう一つお前に忠告しておきたい話がある」
「なんですか?」
 私は苦い顔をしながら窓の外を見る。車はシンの家ではない駐車場に入っていった。周りにレンガ造りの集合住宅が立ち並ぶところをみると、明らかに誰かの家に来ているようだった。
「お前も何かの能力を持っている可能性がある」
 え、なにそれ。
 シンは来客用と書かれた札のある場所にバック駐車しながら続ける。
「他の世界から来た者にも能力が備わるのかどうか定かじゃないが、調べてみたところ、お前も知ってるクロガネのじいさんは能力を持ってるらしいからな」
「ちょっと待ってください。でも、私この世界で生まれた人間じゃないんですよ」
 困る困る。そんな能力、もしもとの世界に帰っても身について離れなかったら、私も一週間以内にその能力を使わないと死んでしまうことになる。
「お前の能力はお前にしかわからないからな。突然死んじまわないよう気をつけろよ。一週間のリミットが来た瞬間から心臓発作が始まるから、それまでには気づいておく必要があるな」
「でも、どうやって自分の能力に気づけばいいんですか?」
 確か、念じれば能力が発動するはずだが、ヒントもなにもなければ検討もつかない。
 シンは車のキーを抜き、エンジンを止める。それから、一人先に車から降りながら言った。
「まあ、なんだ。頑張れ」
 また逃げました、この人。私も車から降りシンの後ろに続いて歩きながら、彼に向かって不幸になれ不幸になれと念じてみる。盗めるのなら、人の幸せを盗む能力なんていいかもしれない。特に、こういう腹立つやつから幸せを盗んでやればいいのだ。
 立ち並ぶ少し古めのアパートの一つに入って行く、彼の後ろを黙ってついていきながら、私は馬鹿みたいに心の中で黒魔術のような呪文を唱え続けていた。

 シンが三階建てのボロアパートに私を連れてきたのは、非現実を盗む能力を持つ者に合わせるためだった。記憶をどうにか戻してから盗んでもらうにしろ、突然押しかけて盗んでもらうより、一度は挨拶しておいた方がいいとのことだった。私たちは、あまり掃除されてなく埃っぽい階段を、一番上の階まで上っていく。それから廊下を歩いていき、304の部屋の前で立ち止まる。シンが私の前に立ち、インターホンを押した。
 一応、シンが電話で事前にアポを取っているらしいので、なんで来たの帰ってよ、とはならないはずだ。
「はい」
 ドアを半開きにして、頬に無精ヒゲを蓄えたメガネ男が顔を出す。体系は痩せ型で、手入れされてないヒゲまみれの頬はこけている。あまり散髪に行かないのか、髪は後ろで束ねていて、どこからどうみてもオタクだった。だって、三種の神器の、メガネ、ヒゲ、ポニーテールが揃っているもの。それになんだか、家の入り口から異臭がしてくるもの。
 とりあえず、私は心の中でそいつをヒゲ男と命名する。
「以前、電話したシンという者です。今日はとりあえず、挨拶だけしに来ました」
 シンは丁寧に挨拶してお辞儀をする。私も必死にポーカーフェイスを装いながらお辞儀する。
「ああ、君がそう。別の世界から来たとかいう」
 ヒゲ男はまじまじと私を見る。私は黙ったまま気づかれないように四分の一歩ぶんだけ、シンの後ろへずれるように足を動かし、彼の視界から去ろうと試みる。人を呪わば穴二つ、とは昔からよく言ったものだ。私の黒魔術が効いてしまったのか、不幸に見舞われたのはどちらかというと私のほうみたいだ。
「女の子だったんだね」
 そんなことはどうでもいいことでしょう。それを言われて私はなんと返せばいいの。ていうか、さっきから視線が私から離れないんですけど。アイドルじゃないんだから、じろじろ見ないでよ。
「これは、前金です」
 シンはそう言って懐から封筒を取り出し、ヒゲ尾に手渡す。彼は封筒からお札を取り出して中身の枚数を数える。
「ああ、確かに。また来るときは連絡してよ」
 気難しい人間だから、というのが彼の忠告だったが、気難しいというより気持ち悪いタイプの人間だと思うのは私だけでしょうか。
 顔を合わせておくという用が済むと、電波の世界のリアル電波さんに早々に別れを告げ、私たちは、特に私は逃げるように車に戻った。
「この世界にもいるんですね。ああいう新人類が」
「まあ、そう言うな。あれでも、自分の能力にさいなまれてきたんだ」
 シンは車のエンジンを起動させる。
「あの、すみません。お金、私持ってなくって……」
 さっき、シンは私のために、賄賂を払ってあのヒゲ男に能力を使ってくれるよう頼んでいたのだ。無力な私には、お金はもちろん、働くすべもない。
「いいんだよ。どうせ、独り身の俺は金の使い道がないんだからな」
 彼は前を向いて運転しながら答える。私はすまない気持ちになりながらも、その返答のおかしさに気づいて眉をひそめた。
「シンさんって独り身なんですか?」
 シンはちらっと一瞬顔を横に向け私を見て、明らかにしまったという顔をした。間違いない。彼は独り身なのだ。しかも、それを意図的に私に隠していた。
「なんで隠してたんですか。てっきり、ナオコさんと夫婦だと思ってたんですけど」
「隠してるつもりじゃなかったんだがな。お前が知らないほうが都合がよかったんだよ」
 言ってる意味がわからなかった。
「私に隠して何を企んでたんですか?」
「別に企んでるわけじゃない」
 彼はきっぱりと否定する。口はあまり良くないが、こういう正直な性格は彼のいいところだと思う。
「ハルにさえ、俺とナオコが夫婦だと思ってもらえてたらいいんだ」
 これだけの情報では、まだ私には意味がわからなかった。
 シンの家に帰る車中で、彼はハルとナオコの関係、それにシンがハルに出会ったときの話をしてくれた。

 私がシンに発見される前日、首都バルセロスにおいて、警察がマスコミに対して情報操作させるくらい大きな事件が起こった。それは、巨大な犯罪シンジケートの組織壊滅事件で、組織の壊滅の詳細な原因は不明。何らかの能力によるものと思われているが、その犯罪組織の一人として正常な記憶がないため、捜査はすぐに暗礁に乗り上げ、未解決事件として現在なお世の中には隠蔽されたまま、警察内部では調査中となっている。
 組織壊滅との何者からかの通報を受けて、現場に最初に居合わせた警察官がシンだったという。
 シンは夜中に警察車両を移動させている最中、通報の知らせを受け、本部から確認に向かえとの命令をうけた。組織壊滅などと話が突飛過ぎて、イタズラの可能性もあるので、応援が必要なようだったら呼ぶようにとのことだった。最初は署の方はイタズラくらいにしか思ってなかったようだ。
 実際に現場の港に向かったシンは、まず先に通報した少年をみつける。紺のロングコートにすっぽりと身体を包んだ少年と同じ種類のコートを着た女とが、港の入り口から三個目の倉庫に立っていた。それが、ハルとナオコだった。
「警官だ。君たちか、東署に通報してきたのは?」
 シンは東署に目的地着との連絡を入れた後、車から降りて通報して来たハルたちの下へ駆け寄った。
「お巡りさん、僕は記憶を盗む能力を持っています。つい今さっき、その能力を使って僕の入っていた組織をすべて潰しました」
 シンは最初はハルの言うことを信じなかった。港の白い街頭の明かりを受けて映し出される同色のコートを着た男女の姿は、闇夜なせいもあってか少し不気味に見えた。そのため、シンは片手をいつでも拳銃に添えられるように自由に腰の辺りに垂らして警戒していた。
「お巡りさん、彼女は僕の所有するアンドロイドです。だから、僕が記憶を無くした後は、彼女に全部の事後処理をお願いしてます」
「待て、話が見えない。ちゃんと説明してくれ」
 勝手に話を進めるハルに割り込んで、逆にシンが質問する。
「お前たちが例の組織を壊滅に追い込んだのか、その証拠はあるのか?」
「この中です」
 ハルは大きく正門の開いている倉庫の中を指差す。シンは二人を警戒して一定の距離を保ったまま、倉庫の入り口に立ち、中を懐中電灯で照らし出す。ぱっと見たところ、二三人、黒スーツのがたいの大きい男が倒れているのが見えた。彼の話が本当かどうかはさておき、何かの事件が起きているのは間違いないようだ。
「こんな様子で、街の拠点の店などでも同じように人が倒れていると思います。皆、ほとんどの記憶を抜いているので、死んではいませんが、普通に喋ることすらままならないと思います」
「お前たちでやったのか?」
 話が本当なら倒れているのはすべて犯罪者だろうから、ある意味では制裁なのかもしれないが、少々やりすぎだ。
「いいえ、僕一人です。彼女はただのアンドロイドで、この件には一切関わってません」
 記憶を盗む能力というのは話には聞いたことがあったが、警察の資料にもその存在は伝説的にしか記録されておらず、実際にその使い手にめぐり合わせたのなどはじめてだった。
「確かに、お前が潰したのは犯罪組織だが、なんでこんなことした?」
 そう質問すると、ハルは少し苦笑いをしてみせた。
「しいて言うなら、賭けの条件でしょうか」
 その表情は物悲しくも子供っぽく、とても悪い人間には見えなかった。
「賭け?」
「すみません、お巡りさん。僕はあまり答えられませんが、僕が自分の記憶をなくした後の事後処理は、すべてこのアンドロイドに任せているのでよろしくお願いします」
 ハルは一礼して空を見上げる。
「僕は一週間だけ夢を見るんです」
「何を言って……」
 言っていることは不明瞭なのに、すべて意味が通っている。なぜだか、そんな気がした。
「たった一週間だけだけど、僕は平凡な日々に暮らす夢を見るんだ。ごめんね、ナオコ。後は頼むよ」
 ハルはアンドロイドに向かって微笑みかける。
「待て!」
 シンはハルの言っていることの一部、すなわち自分の記憶を自分で盗んで消そうとするつもりだということに気づいて、止めようと呼びかけたが、ハルは聞く耳は持っていなかった。
「来るかな、あの子は?」
 彼は消え入りそうな声で、ぽつりとそれだけ言った後、ふっと全身の力を抜いて崩れるようにその場に倒れた。シンが駆け寄って助け起こし呼びかけるが反応はなかった。
 シンはひとまず、救急車を呼びハルを搬送させる。それから、応援を要請し、応援部隊には組織の各拠点の様子を確認させ、シン自身はナオコと共に病院に向かった。
 呼吸は正常なものの、病院に連れて行ってもしばらくは意識が戻らなかった。
「なんで、こいつは自分の記憶まで消そうとした?」
「消えてません。盗んだものは自分のものになるので、時間はかかりますがいずれすべて思い出すと思われます」
 ベッドの上で寝かされているハルのすぐ横で、ナオコはしゃがみこんで彼の様子を見ている。ロボットというよりは、まるで、弟を心配する実の姉のようだった。
「じゃあ、質問を変える。組織を壊滅させた動機はなんだ?」
「私にはわかりません。すべては、記憶が戻ったときの主人に聞くようにと、主人自身が申していました。私は何の事情を知らされず、主人に簡単な事後処理だけ命ぜられています」
 ハルの言うとおり、その後の処置はアンドロイドのナオコが記憶してるようだった。
「じゃあ、お前が命ぜられた事後処理はなんだ?」
「夢を見させて欲しいと」
 ハルは自身の記憶を盗む前、一週間だけ夢を見ると言っていたが、シンには意味がわからなかった。
「夢?」
「主人は自分の能力にひどく悩まされていました。記憶を盗むということは、その人の記憶を覗くということ。知りたくもない他人の大切な記憶を覗き、知りたくもない苦しみを知り、知りたくもない幸せを本人から奪い、知りたくもなかった悲しみを背負うのです」
 記憶を盗むということは、その本人に忘れさせてしまうことでもある。だから、盗まれた当人は、その記憶の幸せだったことも、悲しかったことも思い出せない。いいや、思い出せないことにすら気づかない。
「それで、一週間だけ夢を見る、か」
 いつ記憶が戻るかわからないが、少なくとも一週間は能力を使わなくても大丈夫だ。文字通り、ハルは自分が何の能力を持っているかも忘れた夢を見ることになる。
「それで、お前は具体的にどうするんだ。その事後処理とやらは?」
「主人のことを覚えている肉親は、今では主人のお姉様しかいません。しかし、お姉様を会わせると、主人の夢に支障が生じます。ですので、お姉様は私が説得し、代わりに主人の前では私が姉を演じます。事情を知った肉親が一人は必要でしょうから」
 最近のアンドロイドは思考も人間に近く、非常によくできているという話はちまたで出ていたが、シンはそれを目の当たりにしたのは初めてだった。
「じゃあ、警察なんか呼ばなかったほうが都合がよかっただろう」
「主人が警察を呼んだのは、病院に搬送させるためです。記憶を全部抜いた場合、ショックで死んでしまうこともあるからだと言っていました」
 彼女はシンの質問に答えながら、ハルから一度も視線をそらすことはなかった。まるで、本当の肉親であるかのように。
「死にたくない、でも夢を見たいか」
 シンは彼女の横に立ってハルの表情を見る。おとなしそうな、とても犯罪者には見えない顔つきだった。
「いいだろう、俺が手を貸してやる。その一週間限りのはかない夢ってやつを、一緒に見てやろうじゃないか」
 ナオコはハルから視線をそらし、不思議そうな顔でシンを見上げた。
「どうしてですか?」
「だって面白そうだろう。いまどき、ドリーマーなんてそうそういねえからな」
 どうせ警察は記憶のない人間から事情聴取はできない。彼の罪を追及するのは、記憶が戻ってからでも十分だったのだ。

 実は、私のことが警察署に通報されたとき、シンがやって来たのは偶然ではなかった。ナオコから頼みがあったのだという。どんくさいことに、私はハルの組織壊滅事件に巻き込まれたらしく、ナオコの頼みは、ハルのせいで被害にあった一般人の女の子がいるから保護してやって欲しいとのことだった。
「悪いが、なんであんたがハルの事件に巻き込まれたのか俺は知らない。あいつが思い出すのを待ってくれ」
 ひととおりの話を聞き終えるころには、再び病院に戻ってきていた。退院したはずの私がなんで戻ってきたかというと、ハルが記憶を取り戻しているかどうか確かめるためだった。もし、記憶が戻っていて私のことを覚えていたなら、なぜ巻き込むことになったのかも、もしかすると私の能力も知っているかもしれないからだ。
「シンさんって、見かけによらずお人良しですよね。そういうところは、ローラさんと似てる」
 私がふと思ったことを口にすると、シンは階段を先に上がりながらすごく嫌そうな顔をした。それから、思い出したように、さらっととんでもない情報をつぶやく。
「ちなみに、ローラはハルの実の姉だ」
 え、うそ。私は目を見開く。
「両親はハルに記憶を盗まれたから覚えてないが、ローラだけは盗まれてないから、未だにハルのことを覚えているらしい」
 うそ、え。
「うそ!」
 ついに、私の心の叫びは声になって口から飛び出した。
「似てない似てない。むしろ、ナオコさんがローラと姉妹っていう設定なら、なんか似てるし受け入れられるけど、あの平凡男と清楚なローラさんが姉弟なんて信じられない」
「平凡男って、お前。わかる気はするが、せいぜい特徴のない奴≠ュらいだろ」
「シンさん、そっちの方がストレートすぎます」
 三階の廊下に出たところで私はつっこみを入れる。
「どうも、特徴のない姉です」
 会話への突然の乱入者に、私は驚いて一歩ぶん後ろへ飛び退いた。声の主は平凡男の姉、ローラだった。彼女は私たちを見てクスクスと笑った。その右手首から肘にかけては、目新しい包帯が巻かれていた。さっき病院にいたときには無かったはずなので、おそらく私たちが外出している間に、また誰かの傷を盗んだのだろう。
「にぎやかでいいことね、シン」
 シンは明らかに失敗したという顔をする。私はいつものことだが、シンは珍しく動揺しているようだ。
「どうだ、あいつの様子は。記憶は戻ったか?」
 シンはごまかすように話を本題に取り替えた。
「本人はまだ記憶は戻ってないって言ってるわ。私のことも覚えてないみたい」
 ローラはちょっと陰りを見せながらも、笑顔で答える。
 やっぱり似てない。髪を後ろで結んでポニーテールにしていて清楚な感じで、すらっとした体系だからか、ワンピースでもくびれがキレイ。内心ヤキモキしながら眺めていると、ローラがすまなそうな顔をしながら私のほうを向く。
「ごめんなさい、杉宮さん。迷惑かけっぱなしで」
 ああ、これ以上いい人にならないでください。変な嫉妬するから。
「気にしすぎです。そのお人好し癖、直したほうがいいですよ」
 私は包帯に視線を送り、偉そうなことを言いながら、彼女の横を通り過ぎてハルの病室へと向かった。シンはローラと何か話した後、なぜかローラの手を引きながら追いかけて来た。
「杉宮。ローラが話があるってよ」
 シンは真剣な顔で私に言う。
「いいんです、シン。私は別に……」
 シンに手を引っ張られながら、ローラは顔を赤くして必死に否定する。
「このお騒がせ娘は何も知らねえんだ。あんたの苦労も、ハルの苦労も」
 そう言ってシンは私をにらむ。このとき私にその理由はわからなかったが、おそらく初めて、シンが本気で怒った顔を見た気がした。

 幼い頃は、大人になったら考えられないような夢を見ているものだ。たとえば、宇宙飛行士になりたいとか、お花屋さんになりたいとか、ケーキ屋さん、サッカー選手、野球選手、漫画家、そんな誇大妄想の塊みたいなものたちの中でも、たまに現実的な夢を見ているませたガキもいる。ハルはそんなませたガキだったのだという。
 ハルは中学校の一年生。それに対してローラは高校一年生のときだった。ハルの卒業文集を見ていたローラは、自分が何て書いてたか思い出しながら、微笑ましい気持ちで文集を読んでいたという。しかし、彼女はハルの将来の夢の欄を見て驚いた。その欄には、短く一言、医者とだけ書かれていた。まさか、自分の弟が将来医者を目指していたなんて、これまで一度も聞いたことなかったからだ。
「ハルくんは、私が傷を盗んで帰るのを何度も見てたから。きっと、いたたまれなくなったんだと思う」
 ローラは苦笑する。病院の屋上は意外にも風が強く、少し肌寒かった。私たちはシンに半ば強引に屋上に連れてこられていた。しかし、当の連れてきた本人は、屋上の入り口で番をしていて、話に加わるつもりはないようだった。要するに、女同士でディベートしろってことだろう。
 おそらく、ハルは傷を負う宿命にある姉の傷を少しでも治すために、医者になることを志したのだろう。なんだ、姉弟そろってお人好しなところはそっくりなんじゃないか。
「だったら、傷をつくらないことを考えなかったんですか?」
 少しでも心配かけないように、傷を盗む回数を減らし、傷自体もかすり傷程度の小さなものにすればいいのに、今の彼女の右手の包帯を見ればわかるように、明らかに頻繁に傷を負っている気がする。
「そうね。一時期、私も考えたわ。誰かにそんな心配かけさせるくらいなら、こんな能力なかったほうがいいって」
 なんだ、わかってるじゃないの。
「ハルくんは中学を卒業してからも、本気で医者を目指し始めたわ。たとえ、両親に自分の存在を忘れられて勘当状態になろうと、別居してアルバイトしながらずっと勉強し続けてたわ」
 シスコン。ちょっと、そう思ったけど、これは口にしないことにした。
「別居し始めてしばらくしたころ、彼は今回と同じように自分の記憶を盗んだことがあるの。後から聞いた話、自分の能力が嫌になったんだって。記憶を盗むなんて能力、他人からみたら脅威でしかないから、それを知られて毛嫌いされることが多かったみたい」
 なんだか、自分の世界のイジメ問題みいたいだった。小さい頃は、変な癖とか、髪型とかなんでもないことでイジメを受けたりするものだ。ハルの場合は、もっとひどいものだったのかもしれないが。
「それを期に、あの子は一度、夢を追いかけることをやめたの。追いかけてきた夢からも、自分の能力からも逃げたの」
 だから、と彼女は少し言葉を強める。
「私はパン屋の仕事ができなくなるくらい、とことん傷を負って、ハルくんに会いに行ったわ」
 ブラコンだ。私は兄弟がいないから、兄弟がどういう関係なのかわからないが、もし私が同じ状況だったとしても、ローラと同じことをしたかもしれない。
「逃げて欲しくない」
 彼女の代わりに私が言葉にして発した。
 別に、ローラは自分の傷を治すためにハルに医者になって欲しかったわけではない。たとえ、医者になれようがなれまいが、ローラはどうでもよかっただろう。ただ、大事な弟が、自分のひどい能力に苦しみ溺れそうになっても、生にしがみつけるよう、生から逃げないよう、自分が縄となり彼を守ろうと思ったにちがいない。
 だから、彼女は何度も傷を負い続ける。
「とんだロマンチストね」
 私はローラから顔を背ける。
「結局、あの平凡男は夢を追いかけてるから変な組織にも入っちゃうし、どうせまたそれが原因で勝手に苦しんで、また夢から逃げたのよ」
 ああ、もう。どうしてこうもこの姉弟は腹が立つのだろう。
 見ていてもどかしいから。ちがう。見ていると苦しいから。ちがう。見ていると悲しくなるから。ちがう。見ていると助けたくなるからだ。関係ないのに、水を差すことだとわかっていても、手を差し伸べたくなるからだ。
「似てるだろ、ローラはお前に」
 屋上の入り口で番をしていたシンが、突然口を開く。腕を組んで、私のほうをまっすぐ見ながら。
「伝え方が間接的で不器用なんだよ。そのくせ、厄介ごとに首を突っ込みたがる。自分には無理だとか考えたことがないみたいな顔して、平気で無茶しやがる。人を守るために自分を傷つけたがる」
「女はロマンチストなのよ」
 私は腫れた目でシンをにらみ返す。なぜだか、ローラはそれを見ておかしそうに笑った。
「杉宮さんは厄介事に突っ込んでいくタイプよね。まるで、それが能力みたい」
 言われてみれば、そうかもしれない。最初に傷を盗まれたときにローラに文句を言いに行かなければ、こんなに彼女と関わることもなかったかもしれない。ロボットを治してあげないとなんて思わなければ、イガじいと会うこともなかっただろう。イガじいと会わなければ、音を盗む少年にも会わなかったかもしれない。さっき、ローラに偉そうなことを言わなければ、こんな話を聞くこともなかっただろう。
 自ら進んで厄介事に首を突っ込んで、勝手に背負い込んでいく。まるで、盗む能力みたいだった。
「いいや、待て。もしかしたら、本当にお前の能力かもそれない」
 そのことに気づいて、最初に口にしたのはシンだった。うまく実感がなかったため、私は怪訝な顔をする。
「能力はその本人の特質を表すものも多い。お前の言動から推察するに、その可能性はあるぞ」
「うそ。でも、みんな他人の厄介事を無駄に気にしたりして生きてくじゃない。それが能力だなんて、非論理的で非科学的なこと……」
 アリス・イン・ワンダーランド。私は今、電波の王国に迷い込んでいるのだ。非科学的とか、非論理的なこともしょっちゅう起こる不思議の国にいるのだ。
 これまでの経験から、私はその疑問を否定できなくなった。
「試してみたいことがあるの」
 私はシンとローラにある提案を話す。二人は試してみる価値はあると、納得してくれた。もしかしてこれが私の能力なら、私は失った自分の記憶も取り戻すことができるかもしれない。





 厄介事は抱えている人それぞれだ。たとえば、仕事の悩みだったり、恋の悩みだったり、家族間の悩みだったり、イジメだったり、他人の記憶だったり。その大きさも深さも、人によってまちまちだ。すごく重たい悩みだったり、軽くて簡単に背負えそうな悩みだったり。
「あんたが私の記憶を盗んでるかもしれないの。だから、私の能力の試験もかねて、あんたから厄介事を盗ませてね」
 私はハルのベッドの横に立ったまま説明する。一応、そばにはシンもローラも着ていた。
「それが、君の能力なんだね?」
 私はうなずく。厄介事を盗む能力。私が能力を使ったかもしれない今までの例を考えても、盗んだところで本人の厄介ごとが解消されることはない。おそらく、精神的な厄介事が私に降りかかってくるだけだ。だから、もしハルの厄介事であろう他人の記憶を盗んだとしても、彼から記憶が消えることはない。しかし、私の記憶は戻ってくる可能性がある。試してみる価値はあるというわけだ。
「僕が断っても、やるんでしょ?」
 よくわかってるじゃない。私は答えずににっこり微笑んだ。それから、目をつむって集中する。能力は強く念じれば使えるという。ハルから、彼の厄介事を盗むよう心の中で強く念じた。
 次の瞬間、視界が一瞬にしてぐらっと揺らぎ、真っ暗になった。遠くでシンたちが私に呼びかける声が聞こえる。成功したようだ。やはり、私は厄介事を盗む能力を持っていたのだ。
 ハルの抱える厄介事の重さなのか、それとも頭に入り込んでくる激流のようなもののせいなのか。私の意識は記憶の渦に飲み込まれるようにして落ちて消えた。

 そうだ。私はハルのいた組織に捕まったことがあった。この世界に来て盗みの能力の話を知り、やっと自分の能力に気づきはじめたころ、組織の人間に襲われている見知らぬ人を助けて、代わりに私が組織の人間に捕まってしまったのだ。
 組織の地下牢の中で、何もできずに身売りされるのを待っているとき、偶然にもハルが現れた。
「君は、何かしたの?」
 紺色のコートを羽織ったハルは、牢の中の私に声をかけた。私は口を開く気にもならず、ただただにらみ返していると、驚いたことにハルは牢屋の鍵を開けてくれた。
「僕はこの組織の人間だけど、こういうやり方でお金を稼ぐのは好きじゃないんだ」
 彼はそう言って苦笑した。私は牢を出た瞬間、襲われたり殺されたりするんじゃないかと警戒し、鍵を開けてもらったにも関わらずそこを出ようとしなかった。
「君の服装を見たところ、別の世界から来たのかな」
「そうよ、悪い?」
 私はこの時点では信用してなかったため、組織の人間と同様に彼にも暴力的な口調で答える。
「自由になりたければ力を貸すよ」
 最初は、彼の言っていることを信用していいのかわからなかったが、牢から出ない限り身売りされてしまうであろう私にそれ以外に選択肢はなく、私は彼についていき牢から脱出することにした。脱出の際、彼が記憶を盗む能力を使用して私に関する情報を抹消してくれたことなどを目の当たりにして、私は次第に彼のことを信用しはじめた。
 彼としては暇つぶしか気分転換、もしくは罪滅ぼしのつもりで私を助けてくれたのかもしれないが、どんな理由であれ、窮地の私にとっては彼は恩人だった。
 私は彼の恩に報いようと、彼にある提案をしたのだ。
「私の記憶を盗む権利をあげる」
「え?」
 彼は困ったように首をかしげた。
「だって、この世界の人は一週間に一回は能力を使わないと死んじゃうんでしょ。だったら、私の記憶を盗む権利を一回だけあげる。それで、あなたは一週間盗むことを考えずに生き延びれるわ」
 彼は、でも、とぐずぐずした発言をする。
「記憶を盗まれると、何にもなくなるんだよ。ちゃんと小さく、上手く盗めればピンポイントで記憶を盗めるけど、その保障はないんだ。それに、間違って全部抜いてしまうと、その人は自分が誰だかもわからなくなる。僕のことも全部忘れてくれるから、それはそれで都合がいいんだけどね」
 彼は言いながら最後は苦笑する。染み付いた苦笑いから、彼の苦労の色がうかがえた。
「そうかな」
 私は笑顔で反論し、彼にひとつの賭けを申し込んだ。
「じゃあ、私と賭けてみようよ」
「え?」
「あなたの言い方だと、記憶を盗んでもらったら、私は恩人のことすら忘れるかもしれないってことじゃない」
 彼はうなずかなかったが、否定はしなかった。
「私はそんな女じゃないの」
 正直、ちょっとそう思われるのは心外だし、もしそうなった自分も嫌だった。それに、借りをつくったままにしておくのも気分が悪い。
「私が眠っている間に、あなたは私の記憶を一回だけ盗んでいいわ」
「その代わり、もし私が一週間以内にあなたを見つけたなら、あなたは私をもとの世界に戻す手助けをしてね」
 なんだか、けっきょく私が得している気がするが、無償で無制限に記憶をあげるのだからそれくらいの保障はあってもいいかな、と自分を納得させる。
「もし、見つからなくても、あなたには何のデメリットもないわ」
 彼はけっきょく私の押しに負け、賭けに乗った。

 ああ、思い出した。ハルには以前会ったことがあったのだ。私はもっと前からこの世界にいたのだ。そうだ。この世界に来る前は決してぐっすりスヤスヤ寝ていたわけではない。スニーカーを履いていたのも、ジャージ姿なのも、これはおじいちゃんの入院見舞いに行っていたからだ。
 帰らなくてはいけない。きっと、おじいちゃんが、家族が心配している。
 そのためにも、私はこの世界に、恩人に最後の挨拶をしなければならない。
「ハル」
 私は彼の名を呼びながら目を開ける。光が飛び込んできた。私の身体は下半身は床に寝そべり、上半身はシンに抱えられていた。少しよろめきながら起き上がって、ベッドの上ですまなそうな若干情けない顔をしているハルを見て、私は微笑んだ。
「みーつけた。言ったでしょ、私は恩人を忘れたりしないって」
 ハルは苦笑する。
「ずるいな。まるで、最初からこうなることをわかってたみたいじゃないか」
 そう。賭けはズルして勝つものです。主にシンが色々想定外の助けをしてくれたからかなり予定が早まったけど、記憶を失っても、きっと私はこの世界に疑問を持ち、自分の能力を知り、記憶がないことに気づき、ハルのところに行き着き、彼から厄介事を盗み記憶を取り返すだろうと、賭けの時点でそう思ってた。
「私は、自分とあなたを信じたの。賭けに勝つ本当の方法は、信じることよ」
 私は満足な笑みを浮かべる。ハルはもう一度、苦笑いをした。
「ごめん、先にシンに帰る方法を紹介されちゃったから、約束は果たせないや」
 謝る彼の頭を、私は平手で軽く叩く。
「何言ってんの、約束は約束でしょ?」
「……ごめん」
 私はため息をつく。やれやれだ。私よりも賢そうに見えて、そうでもない。
「私にとって、そこで腕組んでる口の悪い警察官も、容姿端麗な美脚美人のロボットも、見ず知らずの私なんか助けちゃうバカなお人好しも、記憶の戻った私にとって、この世界にいる時間が長すぎて、内容が濃すぎて、全部仮想世界とか電波世界とかの話じゃなくって現実そのものになってるのよ」
 だから、と私は腰に手を当てて言う。
「私がもとの世界に戻るには、あなたの力が必要なの。私が賭けに勝ったんだから、約束、果たしなさいよ」
「お前、まさか」
 背後でシンがつぶやくのが聞こえた。彼の想像通り、私は記憶を消さなければならない。この世界にいたことも、彼らに出会ったことも。
「また、覚えててあげるから」
 私はにっこり微笑んだ。
 立ち並ぶレンガ造りの建物、ほぼ白一色の病院、焦げ茶の警官の制服、コンクリ壁の薄汚れた取調室、茶色のセンスの無いパトカー、緑色のかわいい自家用車、公務員とは思えない態度の悪い警官、アンドロイドの美脚美人、おばさん吸血鬼に傷だらけの女、無口な少年、口の悪いじいさんに口の減らないロボット、平凡を十乗したくらい平凡な男。
 みんなみんな覚えていてあげる。
 すべては計算どおりだ。私の勝ちだ。どうだ、ほれ見たことか。……あれ、おかしい。涙が出てきた。視界がにじむ。おかしい。私、勝ったのにな。なんで、泣いてんだろ。





 私はなぜか、二三週間ほど行方不明になっていたらしい。そして、なぜか見たこともない服を着て、街中で居眠りをしていたところを発見された。警察の事情聴取とか受けたけど、さっぱり何も覚えてないし、むしろ私が聞きたいくらい。私何したの。何したらこんな大事になったの。
 ひとまず、私は五体満足で無事だったということで警察の聴取からは解放されたが、次に待つのは家族の熱烈とも言えるほどの抱擁だった。父さん母さんは泣きながら私に抱きついてしばらく離れなかったが、私は泣かなかった。だから、なんでこんな大事になってるのかさっぱりわからないんですけど。
 そんなこんなが落ち着いて、大学もゴールデンウィークに入った私は、暇をもてあました日にはおじいちゃんの入院見舞いに行っていた。
 今日も昨日と同様、私はおじいちゃんと二人で大富豪をしてた。私は手際よくトランプの山札をくる。
「じゃあ、配るね」
 私はおじいちゃんと自分のカードを交互に分けていく。二人でやると、最初の時点で相手の手札がわかるため、それはそれで頭脳戦になり白熱する。
「ほほう、文目。今回はわしが有利じゃな」
 おじいちゃんの手札にはジョーカーが二枚と2が三枚ある。そう、対する私の手札は四マイナスその数。つまりは、ジョーカーなしで2が一枚という状況。
 逆境からの挑戦。いいや、ちがう。それこそが人生。いい手札が少ないほど、面白みが生まれるのだ。
「そういえばさあ。昔、おじいちゃんの言ってた風林火山って何だったっけ?」
「ああ、ありゃあなあ。風情のある人であり、いつも凛とし、華やかさを忘れず、慙を忘れるなって意味だ」
 私は手札からカードを出す。
「はい、ジャックが四枚。へえ、そういう、意味だったんだね。てっきり、落ち着けっていう意味のことわざかと思ってた」
「ははは、そりゃあ勘違いじゃ。風凛華慙はわしが作ったことわざじゃからな。ほれ、4が四枚でどうじゃ」
 おじいちゃんは意気揚々と革命返しを起こす。
「え、おじいちゃんことわざ作ったの?」
「すごいじゃろ」
 がっはっはと、おじいちゃんは自慢げに笑う。
 私は手札のカードを見て不敵に微笑む。それから、念じるように首からさげたペンダントを握った。四角い、濃い緑色のアクセサリーがついた、私の大事なアクセサリーだ。



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