シニバナ

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プロローグ


 残された者が死人の思いを背負う必要はない。
 残された者の思いを死人が背負う必要がないのも、またしかりである。

 まだ夏は始まったばかりだったが、今日に限っては昨日の雨のせいもあってか少し蒸し暑い。そこらじゅうでお構いなしに鳴く蝉の声も、心なしか体感温度を押し上げていた。
 寺の外でたむろしている黒服の人々の中には日傘をさしていたり、扇子でひっきりなしに扇いでいる人も見られる。
 私は寺の外の様子をぼうっと眺めた後、再び、いま自分の立っている部屋の中の様子に目をやった。おぼろげに私の中に意識がこだまする。
 私は死んだのだ。
 目の前の光景を見てそう認識させられる。モノトーンで身を固めた親戚の人々が自分のことについて話しているのがどこからともなく聞こえてきた。
「結婚してまだ四年だって言うじゃない」
「子どももまだ一歳なんでしょう?」
 夫方の親戚の人たちだろうか。まだ名前も顔もよく知らない、結婚式のときに見たことあるような気がする程度の親戚の人たちが部屋の端のほうでひそひそと立ち話をしている。
 私は自分の両手のひらを見る。見慣れた肌色だったが、わずかに透き通っていて足元の畳もうっすらと見えた。
 その透き通った手で私の長く垂れた白い髪を触ってみる。やはり同様に透き通っている。
 ちなみに、私の髪の毛が真っ白なのは遺伝が原因の若年性の白髪だった。小学生のころから白髪があり、成人を迎えるころには頭は真っ白になっていた。
 その見慣れた白い髪の毛もぼんやりと透明で、そこから掴んだ手を通り抜け畳が見えた。
 私は髪から手を放し自分の服に目をやる。周囲の喪服の人たちとは正反対に、私はなぜか真っ白の和服を着ていた。こんな着物は結婚式のときに着て以来だった。
 私は死んだのだ。
「親御さんだってまだご健在なのにねえ……」
「こら、不謹慎だぞ」
 私のすぐ横に座っている夫が妻と思えるその人の言葉を制する。
 そうだ、あの人はどこにいるのだろう。あの子はどこにいるだろう。
 私はきれいな畳の広がる広い部屋の中を見渡す。皆同じような服を着ているので一見しただけでは見分けがつかない。
 耳を澄ましてあの人の、あの子の声を探す。
 部屋には低く細長いテーブルが長方形に陣を組んでいて、黒い服を着た人々の多くは座ってだんらんしていた。その中から赤子の声が聞こえてくる。
 部屋の奥のほうに見慣れないかしこまった服を着て彼が座っていた。その腕にはしっかりと赤ん坊を抱いていた。
 私の身体は宙に浮いた身体を少し前のめりに傾ける。足を動かして歩かなくとも思うだけで滑るように私の身体は彼らのもとへと移動した。
「止めなさい」
 私の身体は私の意識と共に静止する。私に話しかける声が聞こえた気がした。しかし、この式場にいる人々に私の姿は見えていない。こんな目立つ白服でいても、精進おとしが並ぶテーブルの上をまたいで通っても声をかけもしないのだ。
 私は死んだのだ。
「止めなさい」
 もう一度その声は聞こえてきた。確かに私を呼び止めている。しかし、その声に聞き覚えはなかった。夫でも我が子のものでもない。
「生きている人に触ってはダメ」
 その声は女のものだった。
 私は振り返ってその姿を確認する。私の後ろわずか二三歩分のところにその女性は立っていた。私とは正反対の濃い黒の着物を着ている。しかし、周囲の人とは異なり、彼女も透き通っていた。
「そんなに早く成仏したいの?」
 彼女は澄んだ声で私に尋ねる。私はしばらくその場で放心した。彼女が何を言っているのかも彼女が何なのかもわからなくて私の頭は混乱する。
 そんな私を見て彼女は黙ったまま微笑みかけた。その瞳は優しく私を捕らえてしばらく離さなかった。

 夢だ。それもうんと昔のもの。ある意味では私が死んだ日であり、ある意味では私が生まれた日だった。
 目をこする。青々した夏の空から差す昼の太陽がまぶしい。目の前の黒いアスファルトの道路は日光のせいでそれが差している部分だけ熱を帯びていた。
 私は歳にして二十四で癌を患いこの世を去った。そして死んで数日し意識と半透明の身体を持って私はこの世に再臨した。俗に言う幽霊というものだろうと私は思っている。
 自分の姿は鏡に映らないので詳しくはわからないが、手足がガリガリでないところを見ると、病気になるよりも少し前の身体が私の幽体のモチーフになっているようで、死んで五十年経った今もこの身体は老いも日焼けすらもすることはなかった。
 彼女に会ったのは五十年前の私の葬式の日だ。あの日、彼女の言った忠告を私は今でも守りつづけている。いいや、忠告を守っているというよりは事実上守り続けているだけだ。私に忠告してきた当の本人は、それから一年もしないうちに消えていった。
 私たち幽霊は生きている人間に触れることで成仏する。誰がそういう仕掛けをつくったのかわからないが、私たち幽霊はその掟に縛られてさまよっている。
 死んでみないとわからないかもしれないが、時にその衝動は抑えがたい。私も昔はよくそういう衝動に駆られたものだ。しかし、五十年もの月日を彷徨ってきた今の私はそういった感情もほとんどわかなくなっていた。
 彼女のことが少しだけうらやましい気がする。
 私は彼女が消えてからも何年もこのままでいる。私は何のために存在し続け、何のために死なないのか。そんなことを何年もぼんやりと考え続けている。
 幽霊とは気楽なものだ。食欲、性欲、睡眠欲と呼ばれる人間の三大欲求がすべて無い。だから空腹になることもないし、それゆえにもちろん働く必要もなく、そして時と共に老いて死ぬ、もとい成仏することもない。
 ごつごつしたアスファルトの上に正座したままゆっくりと首を上げ空を仰ぐ。その青の中に、薄い絵の具で引いた線のような雲が流れていた。寝起きの頭でぼんやりとそれを眺めていると、雲は早々に流れて消えていった。
 カタツムリのようにゆっくりとしたリズムで考え事をしている私の横では、白と黒の模様が入り混じった子猫がのんきに寝転がって伸びをしていた。
「気持ち良さそうだな」
 私は夏の日差しを気持ち良さそうに体中で浴びている日本猫に一人静かに語りかける。その身体はまだ小さく、子猫なのに堂々と私の横で仰向けに寝転がっていた。幼さゆえの無防備だろうか。
 私は人だけではなく基本的に生きている者には見えないし声を聞かれることもなかった。しかし、この子猫は違うようで私の姿が見えるし声も聞こえるらしい。
 以前、たまたま路地裏を通るこの子猫に出くわし、明らかに私を見て逃げて行ったので、私も興味を持ち、この猫に餌を与えてみるとすぐに私になついて離れなくなった。それ以来、よくこうしてぼうっと二人で日向ぼっこしている。
 この猫は俗に言う霊媒体質なのかもしれない。
 生きているときならそんなもの真っ向から否定していただろうが、幽霊でいる身の上そうも言えない。もっとも、今のところ人間に見られたことは一度もないし、テレビでそういうことを大っぴらに話している人間の元へ行ってみてもまったく見られることはなかった。
 滑稽な話である。
「お前そんなだらしなく腹を見せていると、トンビに食われるぞ」
 私は子猫を撫でる。子猫は忠告を聞いたのか聞かないのか、寝返りを打ってこちらを半目で見ながら尻尾を振った。
 子猫は小さい、本当に小さい。大人の手のひらと同じくらいだ。親の猫は死んでしまったのか、それともはぐれてしまったのかはわからないが、この小ささでは放っておくとすぐに死んでしまいそうなので、今は私が餌を見繕って与えている。
「あのう。もしかしてあんた……」
 私は猫に気をとられていて、そいつが話し掛けてくるまで目の前に人影があることに気づかなかった。
 私は声の方向に顔を向ける。私の二三メートル手前にその男は立っていた。
 透けている。生きた人間ではない。
「何か用か?」
 男は真っ白な着物を着ている私とは対照的に紅いネクタイにグレーのスーツを着ている。頭は短髪だが歳のせいか清清しさはない。
「あんたも、死ねなかったのか?」
 男は質問に質問を返す。死という言葉が少し引っかかったので、面倒だが私はその問いに短く反論する。
「とうに私は死んでいる」
 小学生みたいな揚げ足取りだが、私には死という表現は幽霊には正しくない。
「ああ、すまない。言い方が悪かった」
 私の言葉に男は戸惑った様子で謝る。それから、男は少しの間言葉を捜して言い直した。
「その、成仏できなかったのかって聞きたかったんだ」
 私は眉をひそめた。幽霊だからといっていきなりぶしつけな質問だ。もしかすると、この男は幽霊になったばかりなのかもしれない。
「成仏なら生きている人間に触れればいつだってできるだろう?」
「そうなのか……」
 男は少しがっかりした様子で声を落とす。やはり、幽霊になったばかりなのかもしれない。
「私はそう聞いているし、現にそうなった幽霊をいくらか見たことがある」
 この五十年、私はいくつの幽霊を看取ったかわからない。それも、生きていたときには見ず知らずだった者ばかりだ。
「どうやったら生きている人間に触れるんだ?」
 男はさらに質問を重ねた。
「モノに触れるのと同じだ。私も実際に生きた人間に触れたわけじゃあないから確かではないが、触れたいと思えば触れられると聞いている」
 そうなのか、と男は再び落胆して肩を落とした。
「触れないのか?」
 私が尋ねると、男は手近な電信柱に手を添えてみせる。その手はすぐにコンクリートの中に入っていった。
「この通り。俺はモノに触れることは出来ないよ」
 男は苦笑した。
 他に成仏する方法は聞いたことがない。今のところ、それが私の知る唯一の方法だ。
「それじゃあ、成仏はできないだろうな」
 私はこの男とは違って何も考えずともほとんど無意識にモノに触れられる。私の場合は幽霊になったときからモノに触れる能力はあったので、どうすれば触れられるようになるのかも詳細な理屈はわからなかった。
「そんなに成仏したいのか?」
 ああ、とうなずいて男は視線を落とす。
「実は、あんたの他にも何人かに同じことを聞いたんだが、みんなあんたと同じようなことを言っていたよ」
 成仏したいのに成仏できない。死してなお自殺願望とは、生きている人間からしたら贅沢な悩みだろう。
「お前、自殺者か?」
 私の問いに男は少し驚いた顔をした。わかりやすい男だ。そうとわかれば、なおさらこの男に関わる気にはなれなかった。
 私は相変わらずゴロゴロ日向ぼっこを楽しんでいる子猫を少し強引に抱き上げ立ち上がる。子猫はぼけっとした半開きの眠そうな目で私を見て、またすぐに目を閉じ腕の中で丸くなった。
 以前も、何度かこの幽霊と同じようなことを質問されたことがある。そのたびに私は決まって同じ答えを返した。
「諦めろ」
 私はそれだけ言い残し、猫を抱いたままその場を立ち去る。腕の中に猫を抱いていると、端から見れば空中に猫が浮いている状態になるので、できるだけ誰にも見られないうちに空高く上昇する。
「あんた、何か知ってるのか?」
 男はその場に立ち尽くしたまま下から問いかけてくる。
 知っている。
「教えてくれ、わたしは成仏したいんだ!」
 私は一旦止まる。この手の質問を受けたのはもう何度目かわからない。なぜこうも成仏したがるのだろうか。いい加減この手の幽霊に嫌気がさしていた。
「諦めればいいだけの話だ」
 私は空高い場所から振り返ってその言葉を吐き捨てる。それからすぐに、私は男を置き去りにして立ち去った。久しぶりに、少し気分が悪くなった。
 子猫はのん気に腕の中で眠りについていた。

 この田舎町で一番大きな三階建ての本屋が私たちの居ついている場所だ。晴れている日は夜になればその屋根の上で本を読むのが私たちの日課になっていた。幽霊はわりと目が良く夜目が利くので、少ない月明かりだろうと本を読むことができる。
 いつものように本屋から拝借してきた雑誌もひととおり読み終えたので、私たちは屋根の上に寝転がってまだ薄暗い明け方の空を仰いでいた。
 ねえ、と彼女は空に顔を向けたまま話しかける。
「人が死ぬのは何でかしら?」
 なんだその哲学的な問いは、と思いながら私はあまり考えずに答えを返す。
「細胞の老化だ」
 科学の世界ではそういう答えで片付くはずだ。その私のそっけない回答に彼女はクスクスとおかしそうに笑う。
「良子(よしこ)、あなたらしいわ」
 またからかわれている。私は寝返りを打った。
 彼女のほうが頭が良いのは事実だが、実際の外見の年齢は彼女の方が若いので少ししゃくだった。
 それじゃあ質問を変えるわね、と彼女は楽しそうに言う。
「幽霊が成仏するのは何でかしら?」
「人に触れるから」
 私はまた機械的に理論的な答えを返した。また馬鹿にされるだろうと思ったが、今度は彼女はうーんと首をひねった。
「それはちょっと違うかしら」
「触れたら成仏するって言ったのはお前だろ」
 私は彼女の回答に文句をつける。もともと彼女がこう言ったから私は人に触れないよう心がけているのだ。
「そうだけど、他にも成仏する方法ある気がするの?」
 でないと触れない私はいつまでも成仏できないと彼女は笑った。
 不思議なことに、私たちは幽霊でありながらお経やお祈りというものにこれっぽっちも影響を受けない。現世で聞いてきた幽霊の話はあてにならず、モノに触れることのできない今の彼女が成仏する方法はわからなかった。
「そんなに成仏したいのか?」
 私は少し呆れる。この世に未練はないのだろうか。
「モノに触れられるあなたが羨ましいわ」
 彼女は寝転がったままニコニコと私を見つめる。
 この世の様々な事柄は釣り合いが取れるように作られている。天気しかり、重力しかり。
 死にたくない者が死に。死にたい者が死ねない。


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