シニバナ

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ウソツキコ


 私は摘んできた一輪のササユリと白黒の子猫を両手に抱き、彼女の死んだ場所に向かっていた。腕の中で猫は物珍しそうに周囲の風景に見入っている。道路はある程度整備されているが、今も昔もこの道を車や人が通ることはほとんどなかった。
 緩やかな坂道を越えると急なカーブの道になる。それがひとしきり終わるあたりに鉄塔を間に挟んでいるY字の交差点が見えた。
 Y字に差し掛かる手前の道路の片側に、くすんだ色の牛乳瓶がぽつりと置いてあって不自然に風景から浮き出て見える。牛乳瓶は彼女のために供えられたものだった。
 私はその瓶の前で立ち止まりしゃがみこむ。
「なあ、月子(つきこ)」
 腕の中で花にじゃれる子猫を道路に下ろし、牛乳瓶に入っていた花を持ってきたユリと入れ替える。
「まただ……」
 私はしゃがんだまま彼女のもう一つの墓とも言えるその場所でため息をついた。
 彼女は交通事故で死んだ女子大生だ。交通事故は昔から変わらずよくある話で、時代が移り変わろうとそれが無くなることはなかった。たいていの事故はニュースに取り上げられても翌日にはもう忘れられている。
 ここに花を供えにくるのも、もう私だけだった。
 別にそれが悪いことだとは思わないが、少し寂しい気もした。
 私は瓶に入った花に向けて手を合わせる。幽霊である私がこんなことをするのは自分でしていて不自然な所業だと思うが、精神的に疲れたときや腹が立ったときなどは、ここに来てこうして月子のことを考えると不思議と気持ちが落ち着いた。
 彼女との記憶は心地よい旋律となり、私の中に今も流れ続けている。

 私は彼女に言われるがままに葬式会場から連れ出された。
 彼女の言っていることを信じたわけではないが、私が幽霊であることは事実だし、まだこのわけもわからないうちから成仏したくもなかったからだ。
 私たちは鳥が飛んでいるぐらいの高さまで浮上し、とりあえず落ち着ける場所にということで、この田舎町を一望できる山の頂上あたりまで移動した。頂で生い茂る夏を彩る緑たちはまるで私に生を主張するようにまばゆく、そしてはっきりと太陽の光を反射していた。
 移動しながら話す彼女の話によると、私は生きていたとき語られていた幽霊のような存在で、数は少ないものの同じような者たちが世界中に点在しているらしい。彼女も今までに何人か私のような幽霊に出会ったことがあり、そこから得た噂によれば幽霊は生きた人間に触れることで成仏するという不思議な決まりがあるらしかった。
「自己紹介、まだだったわね」
 彼女はくるっと反転する。
「私の名前は月子。お月様の月に子供の子で月子。あなたは?」
「良子。良と子で良子」
 私は端的に短く答える。月子はそんな私を見ておかしそうに笑った。
 肩に少しかかるくらいの真っ黒な髪の毛に、喪服とも思える黒い着物。彼女のその姿は、つま先からつむじまで真っ白な私とはまるで正反対のものだった。
「まだ幽霊になったばかりだし、そんな顔になるのも無理ないかしら」
 正直、あまり機嫌は良くなかった。彼女に止められて葬式会場から離れたが、やはりまだ私は子供や夫のことが気になっていた。
「なんで私を助けるんだ?」
 彼女の話が本当なら、彼女はある意味では私を助けたことになる。言い方は悪いがそんな義理は無い。彼女とは知り合いでもなければ、顔も見たことがなかった。
「私、実は天使なのよ。あなたを天国に導くための」
 彼女はにっこりと微笑んだ。対照に私は眉間にしわを寄せる。
 漆黒の着物に身を包んでおきながらよく言うものだ。例え私が幽霊であろうとも、こんな天使はさすがにいないだろう。
「お前もただの幽霊だろ」
 私の指摘に彼女はニコニコしたまま、ばれちゃったかしらと簡単に幽霊であることを認めた。
「そうね。あなたを助けたというよりは、……しいて言うなら暇潰しかしら」
 もしそうならのんきな幽霊だ。
「幽霊って暇なのよ。睡眠も食事も必要ないし、することないでしょう?」
 彼女は人懐っこい笑顔を作る。私は目を細めてそれに応えた。
 私を葬式会場から連れ出すときの月子の説得はシンプルで道理にかなったものだった。随分と先の話になるだろうが、もしかしたら夫や息子も同様に幽霊になるかもしれない。むやみに成仏していくよりも、その時を待った方が利口じゃないかという話だった。
 私は少し迷ったが結局は首を縦に振った。彼女の話が本当なのかはわからなかったが、もし本当だったときのためにも何も知らない今の状態ではそれを鵜呑みにするしかなかった。
「ほら、年頃のいい女がそんな顔しないの」
 笑って笑って、と彼女は微笑む。私はその無邪気さに少し困って目を泳がせた。元来、私は彼女のように女の子っぽく笑うのが苦手だ。
「それじゃあ、今からあなたに幽霊の楽しみ方を教えてあげるわ」
 彼女は再び空に浮上しながら、ついてきてと手招きする。私も特に何をしていいかもわからなかったので、とりあえずは彼女の招かれるままについていくことにした。
「どこへ行くんだ」
 私は先を行く月子の背中に尋ねる。
「普通の人は入れない場所」
 月子はいたずらっぽい笑顔をつくった。
 若い。おそらく彼女は私よりも年下だろう。見た目からもその仕草からもなんとなくそんな気がする。
 私たちはふわふわと宙を漂いながら眼下の町へと降りていった。幽霊の移動速度には限界もあるようだが、意思ひとつである程度自由に宙をさまよえる。生きているときの地球の重力がまったく感じられず慣れるまでは少し不安定で不思議な感覚だった。
 私の浮かない表情とは裏腹に、前を行く月子は移動している間も楽しそうに笑顔をつくっていた。

 幽霊はモノを通り抜ける特質がある。それに加え、生きている人間には見えないし、自分たちの話し声が聞こえることもない。月子の幽霊の楽しみ方は、それらを利用したものだった。
 白昼堂々と銀行の金庫に侵入してみたり、宝石店から指輪を拝借して手に付けてみたり、洋服屋をウィンドウショッピングしたり、深夜の誰もいない本屋でひたすら立ち読みしたり、タダで映画や芝居を見たり、お化け屋敷に行って怖がったり、遊園地で遊んだりととにかく普段はしないしできないようなことをして楽しむものだった。
 彼女はモノに触れることはできないが、モノに触れられる私がいればこれらの遊びの幅も自由度も上がった。たとえば、本や雑誌だって彼女ひとりでは読むことはできないが、私がページをめくることで一緒に読むことができる。
 それこれと月子に振り回されているうちに、私が幽霊になってから三日が過ぎた。寝ないでいるとわかるが、一日二十四時間というのは意外と長い。人生の三分の一が睡眠とはよく言ったものだ。人間がいかに睡眠に時間を費やしているかがわかる。たった三日間でも、気分としてはすでに一週間くらい経っていそうだった。
 最初は私も警戒しながら彼女を観察していたが、彼女は私に何かしたり騙したりする様子はなく、日がたつにつれだんだんと私の疑念と警戒心は薄らいでいった。
 月子と私は昨日と同様に深夜に真っ暗な本屋の中を徘徊していた。昼間は生きた人間の遊ぶ娯楽施設が機能しているが、夜になるとほとんどの店が閉まりそういった遊びもできないので私たちの娯楽は自然と書物に向いていった。
 店じまいした店内には非常灯しか灯っていない。幽霊であろうとさすがにこの暗さで本は読めないので、私たちは面白そうな本を各々一冊ずつ選び、通用口から窓を抜け屋上に持って出て読むことにしていた。
 いつものように各々の興味の向いた書物を選び外に持ち出す。今日は月子はファッション雑誌を、私は地味に新聞を持ち出していた。
 緩やかな傾斜のある屋根に雑誌を置き、月明かりを頼りに二人でそれらを眺める。
「見て見て、この子綺麗ね」
 月子はファッション雑誌の中で薄い黄色のワンピースを着飾るモデルを指差した。年齢は月子と同じくらいだろうか。雑誌の中でかわいらしい笑顔を見せていた。
「ああ、綺麗だな」
 私は月子と一緒にファッション雑誌を眺めながら不思議に思う。幽霊になってから人間の三大欲求はなくなっているのに、いわゆる生きるうえで必須ではないモノの物欲に関しては無くなっていないのだ。
 当然、服だって着飾りたいと思う。
「この服とこのジーンズっていうのも合いそう」
 月子は青白い月明かりの中でまるで子供のように目を輝かせながら雑誌を眺めていた。その輝きは憧れだろうか。それとも、うらやみだろうか。
 彼女は服を着飾れない。もちろん、私のようにモノに触れられる体質の幽霊なら別だ。この前、服屋に行ったとき検証し試着ができることはわかった。
 いつも着ているこの白い着物は意識ひとつで着脱可能だ。見えないとはいえ裸になるのは恥ずかしいので服屋の試着室以外ですることはないが、念ずればそれを消失させ、その上に服を着飾ることはできた。ただし、実体のある服を着れば、周囲からは身体の部分は透けて見えるし、白昼に着まわして生きている人間に見られては、ポルターガイストだなんだのと騒がれるのが目に見えているのでそうするつもりもない。
 だいいち、私たち幽霊は鏡に自分の姿は映らない。他人はおろか自分にも見えないので着飾っても寂しいだけだった。
 しかし、だからこそだろうか。着たいと思う欲求はある。
「私はこの服の方が好きだ」
「あ、それ良子に似合いそう」
 月明かりがよく映える夜空の下、月子と私で他愛の無い会話が繰り返されていた。
 こうしていると幽霊になったことを一瞬忘れそうになる。女友達とちょこっと旅行にでも出かけたような気分だった。まだ私は死んでなんかいなく、家に帰れば息子がいて夫がいて私の家庭がある。
 そんな気がする。
 私は雑誌のページをめくる。そこには楽しそうにカメラに向かって微笑んでいる女の子たちが写っている。私とは違う、ツヤの良い肌に生き生きとした表情がそこにはあった。

 私の葬式から一週間が経った。月子と一緒に過ごす幽霊生活も板についてきたころ、私は再び家族のことが気になってきていた。月子にはまだ会わないほうがいいと止められたが、様子を見るだけでいいからと言ってなんとか彼女を納得させ、私は久しぶりに我が家に帰ることにした。
 これまであえて我が家周辺を避けて行動していたので、その近所に戻ってくるのも久しぶりだった。
 梅雨初めのじめっとした夜の道は、あのころとほとんど変わらない空気を私に感じさせる。
 私は我が家へと足をすすめた。少し離れていただけなのに、なんだかすごく懐かしい気分だった。
 家に近づくにつれて今まで抑えていた心配事が次々と浮かび上がってくる。息子は元気だろうか。夫はちゃんと子供の世話ができているだろうか。そもそも、炊事選択などその他もろもろきちんとした生活ができているのだろうか。
「やっぱり、止めたほうがいいわ」
 いつになく落ち着かない私の後ろについてきながら月子は心配そうにつぶやいていた。
 私は彼女の言葉を無視したまま黙々と家に直進する。こういうとき幽霊は便利なもので、壁やモノを突き抜けて直線的に移動できるし、その上自転車並みの速さで移動できるのに疲れを感じない。
 私たちはほどなくして我が家に着いた。我が家は田舎町の中心街の外れに位置していて、その一軒家の周辺はいつものように静かだった。ちょうど草木も眠る丑三つ時で、周囲の田んぼからは虫と蛙の奏でる夏夜の音色しか聞こえてこなかった。
 玄関の前で立ち止まり一呼吸間をおく。それから、別にそうする必要もないのに私はご丁寧に玄関から家の中に入った。ここから先は、真っ暗でも手足の感覚さえあれば目をつむっていても歩くことができた。
 慣れた感覚で階段を上り、彼らが寝ているであろう二階の寝室に向かった。私は部屋の前でいったん立ち止まり、深呼吸をして逸る胸を落ち着かせる。寝室の襖は息子の仕業か新しい小さな穴が開いていた。
 音が立たないように襖をそっと開け中を覗く。オレンジ色の豆球に照らされた部屋の中には布団が二つ敷いてあって、我が家の男どもがいびきをかきながら気持ちよさそうに眠っていた。
 私にとっては微笑ましい光景だった。夜中に起きて便所から帰ってきたときも、寝ぼけた私の眼の先には同じような二人の姿があった。
 窓は開いているが、暑いのか私の夫は掛け布団をはねのけて大の字になって寝ている。その横の少し小さめな布団の上では、かわいい我が子がよだれを垂らして眠っている。
 寝室の中に入り、私はかがんで膝をつきながら夫とわが子の布団をかけなおす。それから、彼らに触れないようにしゃがんだまま手は腕の中にしまった。
 ああ、変わらないのだ。
 この二人を見ていると自然に笑顔になれる。
「良子……」
 月子が後ろから遠慮がちに声をかけてきた。彼女が言わんとすることはよくわかっていた。やはり、長居はするべきではない。
 目をつむって立ち上がり彼らに背を向ける。これ以上見ていると、色々なものをこらえられなくなりそうだった。
 私がうつむいた顔をゆっくりと上げると、驚いたことに部屋の入り口には両手で顔を伏せたまま鼻をすする月子の姿があった。
「月子……?」
 彼女の華奢な白い手からは涙がすり抜け空中で音もなく消えていた。幽霊も涙を流すのだ。
「あなたの代わりよ」
 月子はぼそぼそと涙声でつぶやく。
「あなたの代わりに……」
「すまない」
 私は手を伸ばしそっと彼女を抱き寄せる。それから、その頭をそっと撫でた。
 幽霊は見ることができる。生きている人間に誰にも気づかれずに、誰にも見られずに色々なものを見ることができる。たとえばそれが、映画だったり、テレビだったり、お芝居だったり、道行く人々の営みだったり。彼女もまた、いろいろなものをただ見ている。
 自分の頬を何かが流れるのを感じた。私のそれは、私の頬からすり寄せた彼女の頬を伝った。
 私が抱き寄せたせいだろうか。彼女はさっきよりいっそう嗚咽をもらしながら泣いた。その涙の主張は弱く、私の体をすり抜け気づかないうちに消えていった。
 しばらくその体勢のまま彼女が落ち着くのを待った。
 数分後、私は彼女に小声でささやく。
「行こうか」
 彼女がうなずくのを確認してから、目を腫らしたその女の子の華奢な腕を取り、障子をすり抜けさらに壁を通り抜け家の外へ出た。途端に、周囲の田んぼから夏の声が耳に入ってくる。
「まだ本屋に行っても大丈夫な時間だ」
 ほら、といつもより神妙な月子の手を引き空をかける。青白くまんまる光る月明かりに照らされながら、私たちはいつもの本屋へと向かった。
 各自本を選んで屋上に持ってきて読み始めたころには、月子は何事もなかったかのようにけろっとしていた。
 彼女はいつものようにファッション雑誌を持ってきて楽しそうにそれを眺め批評する。私もいつものようにページをめくり相槌をうった。
 月明かりが綺麗な夜、寝静まった本屋の屋根の上で少し不自然に雑誌がはためく。その不思議な光景には、夜空を舞う鳥も月も人工衛星さえも気づかない。
 いつものように声なき声が本屋の屋上でこだました。
 月子はいつもどおりの笑顔を見せる。私のために泣いた後で。

 意外だった。月子は絵画が好きらしい。
 その日はいつもより少し遠出して、二人で隣町の美術館に来ていた。平日の昼間だったので私たち以外に客はほとんど見あたらなかった。
 私はこの手のものに詳しくはないので名前を見ても覚えられなかったが、外国の画家の展覧会が開かれていて館内の白い壁に多くの絵画が展示されていた。
「ほら見て、何考えたらこんな変な絵描けるのかしら」
 誰にも聞こえないのをいいことに月子は言いたい放題の感想を述べる。こういうとき幽霊は都合がいいと思う。
「芸術家は頭のつくりが違うのよね」
 言葉だけ聞くと皮肉のようだが、まじまじと絵を眺める月子の様子からすると素直に感心しているようだ。
 私は生前も絵を描くのは決してうまくはなかった。それゆえか、実物に似ている似ていない基準の上手い下手しか絵を評価できなかった。そもそも、絵画を見て癒されるとか引き込まれるような魅力を感じたことがない。
「なあ、どういうのが良いのだ?」
 文字通りふわふわとさっきから浮かれている月子に問いかける。彼女は絵画から目を離さずに応えた。
「どの絵が良いか悪いかなんて自分で決めるのよ。良子が良いと思える絵がここにないならそういうことね」
 ファッションみたいなものかしら、と付け加える。いまいちピンとこなかったが、絵画に詳しい月子が言うのだからそうなのだろう。
 私はもう一度同じ絵を眺めてみる。金髪の女の人が枯れた木に寄りかかっていて、背景はよどんだ紫やら茶色やらが入り混じった油絵だった。
 やはり特にこれといって特別な感情は芽生えなかった。
「あはは、見てあの警備員さん昼寝してる」
 つい今しがた絵画を見ていたかと思うと、今度は部屋の端のほうでパイプ椅子に座って舟をこいでいる警備員を指差して月子は笑っていた。どうやら彼女の興味を理解するのにはもう少し時間がかかりそうだ。
 私は居眠りする警備員を見てふと気になっていたことを思い出した。
「そういえば、寝ること自体しばらくやってないな」
 一日中活動していても疲れないのでもうすでに忘れかけていたが、生き物の多くは眠るという行為を自然に必要とする。しかし、逆に睡眠を必要としない幽霊はそもそもその行為が可能なのだろうか。
 芸術よりもそちらが気になってきたので、再び絵画に夢中になっている月子に質問を投げかけてみる。
「なあ、月子。私たちは眠ろうと思えば眠れるのか?」
 月子はきょとんとしてうなずいた。
「そうか、良子は幽霊になってからずっと私と一緒にいたから寝たことないのよね」
 月子は目線を絵画に戻して鑑賞を続けながら、幽霊の睡眠について話してくれた。
 彼女の話によると幽霊も目を閉じてリラックスしていれば、人とほとんど同じように眠ることができるらしい。睡眠時間もその時々で様々でたまには夢も見る。ただし、生きている人間とは異なり、その夢の内容は自分の過去の記憶がそのまま投影されるらしい。要するに、記憶がごっちゃになったり改ざんされた変てこなものになるのではなく、過去の記憶そのものが脳裏に映し出されるらしい。
「億劫だな」
 過去の記憶など、考えれば考えるほど気が重くなるだけだった。まとめると私はこのような結論にたどり着いてしまう。
 まったくもって理にかなわない行為だ。やはり、幽霊にとって睡眠そのものに意味はなさそうだった。
「でも、気分転換になるからたまにはいいかもしれないわ」
 月子は相変わらず絵画に夢中なまま、上の空で適当なことを言う。
 私は首をかしげた。疲れを取るわけでもないのに気分転換になるのだろうか。
 楽しそうに芸術品を見て回る月子についていきながら、私は鑑賞しているフリをしながらしばらく幽霊の睡眠について考え込んでいた。
 美術館を出た後、もといた町へ帰りながら興味本位でもう一度睡眠について月子に質問してみると、それじゃあモノは試しという月子の立案から今晩実際に寝てみることになった。
 考えるよりもまず動く。これはどうやら、彼女の性格のようだ。

 美術館からいつもの本屋の屋上に戻ってきたのは午後八時ごろだった。六月で日が長いとはいえもうこの時間帯になると辺りはかなり暗くなっていた。しかし、まだ本屋は営業しているので、本を持ち出して読むことはできない。だからといって、眠るのにも少し早い時間帯だった。
 屋根の上から眼下の道路を眺める。駅近くの大きな道にはヘッドライトの灯った車が流線を描いていて、歩道を歩いている人もまだ沢山いた。この時間帯になると無性に家に帰りたくなるのは、生きていたときの感覚がまだ残っているからだろうか。
 月子も同様に下に広がる夜の街を眺めていた。
「ねえ、何で死んだと思う?」
「私か?」
 やぶから棒な質問に私は少し驚く。それを見て月子はちがうちがうと手を横に振り苦笑した。彼女は人差し指で自分をさす。
「私のことよ」
 私は眉をひそめた。死ぬ前の話はまだ月子にはしてなかったので、てっきり自分の話かと勘違いした。
「良子ってぜんぜん私のこと聞かないから」
 月子は両手を空に突き上げ伸びをする。それから屋根の上に寝転がった。
「私そんなに魅力ない女かしら」
 月子は少しおどけてみせた。確かに彼女の言うとおり、ほとんど彼女の過去について尋ねたことはなかった。むしろ、自分から何も言わないので詮索してほしくないのだと思っていた。
「当ててやろう、二十歳で死んだだろ」
 彼女の見た目や言動から、以前よりなんとなくそんな気がしていた。すると、私の勘は見事に的中して彼女は驚いた顔をする。
「すごい。何でわかるの?」
「勘だ」
 私は少しだけ誇らしげに微笑む。
「死因は何だったんだ?」
 さすがにそこまでは想像できなかったので彼女に答えを求める。すると、自分から持ちかけておいて月子は目を泳がせて少しためらった様子をみせた。
 やはり聞かなかったほうが良かっただろうか。
「……自殺、かしら」
 月子は少しの間悩んだ末に苦笑いしながら答えた。
 そうは見えない。またもや私の勘だがそう思った。だいいち、自殺するにしては性格が能天気で明るすぎる。
「なにか理由があったんだろ」
 私がそう言うと彼女は少し困った顔で首を横に振った。
「魔が差しただけよ」
 こんなこと言ったら色んな人に怒られそうね、と月子は笑ってみせた。私はそれには何も返さず、彼女の横に二人でハの字になるように寝転がった。
「私は二十三のときに癌を発症した」
 私が病院で寝ていたのもついこの前のことだった。最後は自宅療養だったものの、それまではずっと入院生活だった。あのひどく苦痛だった闘病の日々と、今の呑気な幽霊生活はまさに天国と地獄だった。
「子供を生んでたった一年で癌だと宣告されたときは、私は自分の運命を呪ったよ」
 癌は未だ不治の病だ。もちろん、早期にきれいに切除できたならそれを一旦消滅させることはできるが、私の場合は若かったこともありその進行は早く、気付いたときにはもはや手遅れだった。
 病気のせいでろくに子育てもできない身体となり、夫は入院費や治療費を稼ぐために仕事に追われ、息子はその間ベビーシッターや親に預ける始末だった。
 あのころ私は本当に自分の身体を呪った。自分が家族を苦しめていると思った。
「理不尽ね、この世は」
 月子は黒く染まった空に手を伸ばしながらつぶやいた。それから少しの間、二人で黙ったまま空を仰いだ。たまにパァーンと車のクラクションが夜空に鳴り響くのが聞こえてくる。
「……そうでもない」
 私はしばらくして小声で反論した。
 多くの者はそのまま消えていく中で私は幽霊になれた。妙なところで運がいい。少なくとも、この幽霊の身体で彼らの人生を見届けることができることだけは良かったと思っている。
 その上、私は今一人ではない。
「理不尽よ」
 月子は確信があるようにもう一度つぶやく。
 私は何も言い返さず寝返りを打って月子に背を向けた。少しだけ、彼女が自殺者だというのが理解できる気がした。
 徐々に夜は更けていく。

 治療は最終段階に入り、すでに化学療法も試し済みだった。おそらく、医者ももはや打つ手がなくなったのだろうことを私は察して、自宅に帰りたいと強く主張するようになった。まだ一歳半の息子はともかく夫の勝昭(かつあき)がどう思っていたかはわからないが、少なくともそのときは私の主張を尊重してくれた。
 夫婦二人の主張でついには主治医も折れて、親族同伴で通院を続けてくれるならという条件つきで私の自宅療養は始まった。
 私は長かった入院生活を終え、直る見込みのない病気を抱えたまま退院を迎えた。
 退院する日は心なしか気分も体調も良かった。私は上機嫌で外用のワンピースに着替える。入院用の荷物は先に勝昭に持って帰ってもっていたので、家で待っててくれという電話を入れ、その日はタクシーを使って一人で帰ることにした。
 病院内からタクシー乗り場まで歩いただけだったが、ずっと寝ていたせいかはたまた病気のせいか自分の体力が呆れるほど衰えているのがわかった。結局、タクシーの中でくたっと座席にもたれたまま、うとうとしながら我が家へと向かった。
 家に着いたのは夕方だった。
 勝昭は会社から長期の休暇をもらったらしく、我が家で息子の信也(のぶなり)の世話をしながら落ち着かない様子で私の帰りを待っていた。
「ただいま」
 私は久しぶりに玄関の戸をくぐる。我が家独特の匂いも、この周囲の空気もすべてが懐かしく微笑ましかった。
「おかえり!」
 待ち構えていたのだろう、私が靴を脱ぐ前に勝昭は現れた。もちろん、その胸にはしっかりと自分の息子を抱えていた。
 信也は彼の腕の中で指をくわえもう片方の手を私に伸ばす。
「こら、信也。指は咥えるものじゃあない」
 私は少し厳しい目つきをして信也の右手を口からはがす。
「何回も言ってるんだけど、俺の叱り方が足りないかな」
 勝昭は信也を降ろして私から唯一の荷物の手提げバッグを受け取る。
「勝昭は甘いからな」
 私が言うと勝昭はすまなそうな顔をした。その顔がなんだかおかしくて私は笑う。
「どうした。なんか面白いことあったか?」
「いいや」
 私は靴を脱いで家に上がり、手ぶらになった両手で信也を抱きかかえる。この子ももう一歳も後半に差し掛かっていた。日に日に大きく、そして重くなっていっている。病気で体力のなくなっていた私にとってこの子はどんどん重たくなっていた。
「ただいま、信也」
 信也は腕の中で言葉にならない声で笑いながら私に何かを訴えかける。
「なんだ、信也?」
「信也のやつ、やっぱり父さんより母さんの方がいいんだろうよ」
 はははは、と勝昭は自分で言って自分で大声で笑う。
「それは困ったな」
 私は信也の頭を撫でながら居間に向かった。勝昭は私の荷物を片付けるために二階に消え、それからすぐ居間に戻ってくる。
「簡単なもんしか作れないけど……、夕飯焼き飯でもいいかな?」
 ああ、と私はうなずく。勝昭はいそいそとキッチンへ向かい、晩御飯の支度を始めた。
 信也を床に降ろしてやり私はテーブルの横にある薄水色のソファに腰を下ろした。
 懐かしい我が家だった。そういえば、私のわがままで和室のある家に住むことにしたのだ。二階の寝室と一階の居間は畳が敷かれていた。コタツ兼用の背の低い木製テーブルの横には、勝昭がどうしても欲しいと買ったソファがちょっと不自然に置いてある。
 病院に入院してからも何も変わっていない。私たちの家だった。
 ソファの背もたれに寄りかかりながら自由奔放に動き回る我が子の様子をうかがう。私が入院しているうちに、少しだけだがこの子は二本足で歩けるようになった。それに、いくつか言葉も覚え始めていた。
「この子はお前似だな」
 私はよろよろ駆け寄ってきた信也の頬を撫でながら言った。この目のくりっとしたところや、髪の生え際がなんとなく似ている。
「そうか。それなら将来はイケメンでモテ男だぞ」
 やったな、とキッチンから野太い笑い声が聞こえる。
「あんまり似すぎるなよ」
 私は少し咳き混じりに信也にささやいた。信也は聞いているのかいないのか、だっこを求めるように私の足元で両手を広げ膝に抱きついてきた。
「おい、大丈夫か。辛かったら横になってろよ」
 キッチンからイケメンが首を伸ばしてこちらの様子をうかがっている。
「痰(たん)が詰まっただけだ」
 私は咳をこらえながら信也を膝の上に抱え上げた。無理するなよー、と少し間延びした声がキッチンから聞こえてくる。
「大丈夫だ、心配ない」
 私は信也の手をつかんでじゃれあう。その小さな手はまだ私の指をやっと握れるぐらいの大きさしかない。
 家の雰囲気からくる安心感なのか、病院にいるときよりは不思議と気が楽だった。吐き気や頭痛と付き合っていくのに少しは慣れてきていたというのもあるかもしれない。
 ほどなくして勝昭お手製の夕食が出来上がった。彼の料理を食べるのは出産のときと病気で寝込んでどうしようもないときなどと特別なときだけだった。つい数ヶ月前まで我が家の食事は自分で料理していたのでなんだかむずがゆい気分になる。
 こうして三人でこのテーブルを囲うのも久しぶりだった。私と勝昭は座布団に座り、信也は腰の低い赤ちゃん用のパイプ椅子に座らされる。夫婦用に焼き飯の皿が二つ用意され、まだ歯の生え揃ってない信也にはきちんと別に離乳食のうどんが置かれていた。
 三人できちんといただきますと言う。それから、私はまず信也のうどんに箸を伸ばした。
「少しもらうぞ」
 信也の皿からうどんを一掴み取り試食する。以前教えたとおりきちんと薄味になっているし、温度もちょうどよいくらいだった。
「うまいじゃないか、イケメンシェフ」
 私がほめると勝昭は満足そうな笑みを浮かべた。信也はというと当然の反応だが自分の飯が取られたことに文句があるようで、口を半開きにして私をじいっと見ていた。
「悪かったな、代わりにこの焼き飯を少し分けてやろう」
 私は自分の焼き飯をスプーンで少しだけすくい、それを信也の口に入れてやる。
「どうだ、信也。俺の焼き飯は?」
 大人の味だろ、と彼の答えを聞かずに自慢げに微笑む。信也はもっとくれと私にアピールしてきたが、これ以上はダメだとぴしゃりと言うと、仕方なく諦めて自分のうどんを食べ始めた。まだ箸は使えないので、先の丸いフォークを使って不器用にうどんをすくっていた。
「そろそろ離乳食終わってもいいかもしれないな」
 私はスプーンを置いて話す。
「それじゃあ、もう信也の分も一緒に作っていいのか?」
「離乳食はだいたい十五か十八ヶ月くらいまでだと言うし、そろそろ普通の食事に慣らしはじめてもいい時期だろう」
「でも信也も食べるとなると味付け薄くしないといけないからなあ」
 勝昭は苦い顔をした。
「薄味は健康にいい」
 私は食べる手を止めたままおどけてみせる。勝昭は勘弁してくれと言いながら笑った。
 私たちは夕飯を終えると、順番に風呂を済ませ信也を先に寝かすことにした。お腹が満たされていたこともあってか、信也は一緒に布団に入って横になっているとすぐに寝ついた。
 私は布団の中に信也を残し、勝昭のいる居間に戻る。勝昭は音を小さくしてテレビのニュースを見ていた。
「寝たよ」
 私は彼の後ろから声をかける。
「そうか、お前はまだ寝ないのか?」
 私はその問いにほほえみで応えた。それから、彼の座っているソファのすぐ横の座椅子に腰を下ろす。気を張っていたせいかそれとも風呂に入ったせいか少し疲れていたが、久しぶりに我が家で二人きりになれたので、もう少し勝昭と話がしたかった。
「今日は飲まないのか?」
 私は手でグラスを傾ける仕草をする。
「信也の面倒を見ないといけないから酒は止めたよ」
「そうか」
 私は座椅子に座ったまま足を伸ばした。主張の薄い桃色の寝巻きからはみ出た私の肢体はみじめに細かった。
「ご飯、食べられないのか?」
 勝昭は図体に似合わず少し心配そうな顔をする。せっかく作ってもらったのだが、夕飯は結局二口くらいしか手をつけなかった。
「もう少し味付けが上手くないとな」
 私はわざとわがままを言ってみせる。本当は抗がん剤の副作用で吐き気がひどくてまともに食事ができる状態ではなかった。健康だったときにはこんな状態想像もつかなかったが、身体が食べ物を受け付けず本当に喉を通らなかった。
「そうか、無理に食べなくていいからな。……、って不味いのかよ!」
 うーん、と彼は困った顔をして腕を組む。私はその様子がおかしくて笑う。
「まあ、俺の料理が上手くなるかはわからんが、何か欲しいものとかあったら遠慮なく言えよ」
 入院中も何度も同じことを言ってもらったが、正直なところ病気なときに健康以外のものが欲しいとはなかなか思えるものではなかった。
 しいて挙げるなら、入院中に考えていたわがままがひとつだけある。昔見た洋画で、若い夫婦がやっていてうらやましいなと思っていたものだ。
 それじゃあ、と私はおもむろに立ち上がって彼の元に歩み寄る。
「しばらく私の椅子になってくれ」
 私は微笑みながら勝昭の膝の上に少し斜めに腰を下ろす。それから彼の肩に頭をあずけた。
 突然のことに勝昭は驚いたような困ったような顔をする。私は頬を高潮させて黙ったまま、目を閉じて彼の鼓動を感じた。思っていたよりも居心地がよかった。
 普段ならこの歳でこんなこと恥ずかしくてできない。しかし、余命が短い今ぐらいそれに甘えてもいい気がした。
 私の心中がわかっているのかいないのか、勝昭は黙ったまましばらくそのままでいてくれた。私の意識はうつらうつらとし、やがては深い意識の闇へ落ちていった。

 私ははっとして目を見開く。横になって目を閉じていたらいつの間にか眠っていた。
 恥ずかしい夢を見た。死ぬ一ヶ月ほど前の記憶だ。何でよりによってこんな恥ずかしい記憶が夢になるのだろう。
 本屋の屋根の上で上体を起こす。それからぼりぼりと上気した頭を引っ掻く。顔を洗いたい。今すぐ風呂に入りたい。
 夢の余韻で陶酔している頭を掻きながら横目で月子の様子をうかがう。月子はというと隣でまだ眠っていた。幸せそうにぽかんと小さく口を開けてよだれを垂らしている。
 周囲の様子から察するに時刻はまだ朝早いようで、空こそ明るくなってきているがまだ慌ただしい車たちの喧騒はあまり聞こえてこなかった。
 幽霊になって初めて眠った。寝違えて肩がこったりしないが疲れが取れるわけでもないのであまりすっきりしたという感覚はない。ただ、生きていたときと同じように、寝起きは少し頭がぼうっとするし目がしょぼしょぼした。
 それにしてもほんとうに過去の記憶が夢となるのには驚いた。それも、覚えていることだからかわからないがけっこう鮮明に頭に残る。
 私は伸びをして深呼吸する。
 心が揺らぐ。
 もし今目の前を彼らが通り過ぎたなら、彼らに触れたいという衝動を抑えられる自信がなかった。
 私はもう一度屋根の上に寝転がる。
 心が揺らぐ。
 自分が何のために幽霊でこの世とあの世の狭間のような空間を彷徨っているのかわからなくなる。
 辛い。見届けたいのに、それを見届けることすらままならない。
 今になってやっと死んだ実感がわいてきた。もう彼らの認識の中には私はいないのだ。そこに戻ることは許されない。
 私は少しでも彼らを幸せにできただろうか。私は我がまますぎやしなかっただろうか。私の感情はうまくあの人に伝わっていただろうか。
 死ぬ前に整理したはずの色々な悩み事が再び心の中に沸き起こる。
 気になるのはあの二人のことだけではなかった。
 私の両親や祖母、祖父、それに友人たち。彼らよりも何倍も早く私はこの世を去った。ただ、苦しみだけを残した。
 理不尽よ。
 寝る前に月子の放った言葉が再び頭の中ではんすうする。
 勝昭ならなんと言うのだろう。もし今の私を、幽霊になって彷徨っている私を見たならなんと言うのだろう。
 私をなだめてほしい。私はそんなに強くはないのだ。
 心が揺らぐ。
 私は伸びをして再び目を閉じた。
 たとえ過去の記憶だろうがそれはただの夢だ。それはもう今ではない。
 私は夢の余韻と現実の冷淡さに打ちひしがれながら、月子が起きるのを待った。私のことはつゆ知らず、彼女は寝たのが遅かったのか結局昼前になって目を覚ました。
「おはよう」
 月子はそう言ってむくっとおもむろに起き上がると目をこすった。それから、眠たそうな半開きの目でいつものように微笑む。
「はじめて寝た感想はどうかしら?」
 私は寝転がったまま寝返りを打ち彼女に背を向ける。
「夢を見た」
「ほんと、どんな?」
 少し身を乗り出し彼女は興味ありげに私を見つめる。
「昔の記憶だ。死ぬ一ヶ月くらい前の」
 思い出したらまた恥ずかしくなってきた。
「やっぱり幽霊の見る夢は自分の記憶なのね。私も前見た夢は昔の思い出だったもの」
 ふわぁと彼女は大きくあくびをする。幽霊もあくびをするのだ。
「それで、どんな夢だったの?」
 月子はもう一度内容に食いついてきた。
「私は死ぬ前は自宅療養していたんだが、そのときの話だ」
 月子が結構興味ありそうだったので、私は恥ずかしい話を省いて、かなりかいつまんで夢の内容を説明した。
「良子って意外と我がままなのね」
 月子はおかしそうに笑った。私は苦い顔をしながら小さい声で言い訳をする。
「あれは、ふざけただけだ……」
 そう言うと、彼女は良子かわいいと声を上げて笑った。ちょっと私は話したことを後悔する。
「それで、今日は何しようかしら?」
「映画でも観に行くか」
 私は思いつきで言う。ぼうっとしながら他の事を考えていたかった。
「いいわね、行きましょう」
 月子は立ち上がる。私も合わせて立ち上がり、二人でふわふわ漂いながら映画館へ向かった。

 私が幽霊になってからちょうど一ヶ月が経った。その日は梅雨も終わりかけの、バケツをひっくり返したような雨の降る日だった。
 突然、月子が騒ぎ始めた。
 さんざんと降る雨の中、月子はさながら台風の日の小学生のように興奮して踊りまわっていた。
「おい、落ち着け」
 私はわけがわからず一人で騒いでいる月子を追いかけた。雨が強いせいで視界が霞んでいて、あまり離れると彼女を見失ってしまう。
「だって、ほら見て。見て、良子!」
 彼女は頭を横に激しく二回ぶんぶんと振って濡れてツヤツヤになった髪からしぶきを飛ばしてみせる。雨に打たれてべっとりした髪の中から、これまでに見たことがないような満面の笑みを彼女は見せる。
「私、雨に打たれてる!」
 常人ならすぐに屋内に非難するような量の雨が降る中、月子は楽しそうに私にその事実を告げた。私は一瞬彼女が何を言っているのかわからなかったが、その言葉にはきちんとした意味があった。
 月子は幽霊だ。しかも、私のようにモノに触れられる体質はなかった。それが、雨に打たれているということは、雨に触れることができるようになったということだった。
 私は驚いて目を見開く。そこには浮かれてはしゃぎ雨に打たれる女の子の姿があった。
「触れる。触れるの、私!」
 彼女は周囲にあるあらゆるものに手を伸ばす。電信柱、トタンの屋根、コンクリのビル壁、道を歩く人の傘、あらゆるものに触っては歓喜の声を上げる。
「どうして……」
 当の本人でない私は、冷静にその不思議を疑問に思った。もともと触れることのできる幽霊とそうでない幽霊がいるのは月子から聞いたことがあったが、こういった触れるようになるという話は聞いたことがなかったし、だから彼女もこんなに浮かれ騒いでいるのだろう。
 月子とは裏腹に私の心は穏やかではなかった。同時にもう一つの疑問が私の心をかすめる。
 月子は消えるのだろうか。
 私も手のひらをかざして雨に触れる。その雫はやがて手のひらの上で小さな水溜りを作り、そこから手首を伝って腕から肘へ雫を流す。
「あら、良子も濡れてるの?」
 頭からつま先までびしょぬれの女の子が私の前で微笑んでいる。私も内心を隠すように微笑み返す。
 雨は徐々に私の身体を浸食する。髪を濡らし着物に浸透し私の身体を重くする。
「雨に打たれた良子もけっこう綺麗ね」
 月子は笑いながら私の周りをくるくると回った。
 雨に触ろうなどと思ったことがなかったので、今まで触れもしなかったが、その感触は生きているころとそれほど変わりはしなかった。今日のような強い雨は一粒一粒が頭を刺激する。私の長い髪はふやけてべったりと頬やら首やらに張り付いていた。着ている着物も濡れて身体に張り付いてきて少し気持ち悪い。
「なあ、月子」
 私は疑問のもう一つをどうしても抑えることができずに月子に尋ねた。
「月子はもう成仏してしまうのか?」
 月子は立ち止まってきょとんとし、それからほんのわずかな間悩んだ末に応えた。
「もうちょっとこのままでいるわ」
 彼女の回答はひどくあいまいなものだった。
 だってやっと色々できるようになったのにもったいないじゃない、と微笑んで私の手をそっとつかむ。
「ほら良子の手だって触れるの」
 彼女は私の手を引っ張りながら楽しそうに町の上空を飛び回る。興奮冷めない彼女に手を引かれながら私はこの町を眺める。道路を行きかう人たちはみんな傘に隠れているのでその表情は見えない。雨で霞んで町の端などぜんぜん見えなかった。私に今はっきりと見えているのは月子の笑顔だけだ。
「良子の手って細くて華奢ね」
 彼女は楽しそうに話す。
 気付けば、ばしゃばしゃと大きな音を立てて降っていた雨はいつのまにか大人しくなっていた。しかし、私の視界は変わらず霞んでいる。頬をつたい流れていく雫は音もなく空中に四散した。
 この湿ってべたついた髪や服も気持ち悪いので早く乾かしたかったが、しばらく雨には止んでほしくなかった。
 そんな矛盾した私の願いに応えてくれたのか、雨は少しするとまた強くなり、ひとしきり降り続いた。それはまるで、私たちの笑顔を隠すように。

 月子はよく笑う気さくな女の子だ。本人は人見知りだと言い張ったが私にはそうは見えない。現に赤の他人の私に初対面であれだけ関わってきてくれた。
 大学でもコツコツ勉強していた勤勉な性格なようで、彼女は頭も良くおそらく私よりも常識人だった。駅前の大型テレビに映るニュースを見ては、私にはついていけない難しい政治の話をしていたりもする知識人でもある。
 彼女は私よりも格段に女の子っぽく、洋服などのファッションにも興味があった。いつも着ている真っ黒の和服ですら似合う美人でもあった。
 いろいろなことを踏まえると、やはり彼女が自殺する理由が私にはわからなかった。
 友達がいないようにはとても見えないし、大学で生活している以上誰かしらとかかわりがあるはずだった。いつも独りであったとはとても思えない。
「良子、何か怒ってるの?」
「別に怒ってないが……」
 月子は怪訝な顔をして考え事をしていた私を覗き込む。
 梅雨明けの心なしか強くなった日差しの下で、私たちはいつもの本屋の屋根にたむろしながら今日の遊びを考えていた。いいや、正確には私は別のことを考えていた。
「なんか不機嫌そうな顔してるわ」
「もとからこんな顔だ」
 そういえばそうね、と彼女は笑う。否定しないのか……。
 以前にも同じようなやりとりを勝昭としたことがあった。私は考え事をしていると自然にむっつりした不機嫌な顔になるらしい。とんだ誤解だ。
「あ、お父さん……」
 月子はそうこぼして眼下の道路に視線を落とした。その視線の先には狭い路地を歩く一人の背広を着た男がいる。
「親父さん?」
 月子は黙ったまま小さくうなずく。
 彼女の父親だというその男は右手には黒くサラリーマンっぽいアタッシュケースを持ち、左手には白いビニール袋を持っていた。よく見ると、そのビニール袋からは赤紫の花が顔を出している。
「この辺に住んでるのか?」
 彼女は今度は首を横に振る。
「どこ行くのかしら……」
 月子も今日の遊びそっちのけで気になっていたので、とりあえず二人で彼の後をついていくことにした。
 月子の親父はこの暑さの中、駅前から徒歩で一時間くらいかけて大学横の山道まで移動した。背広姿だが、平日の昼下がりに長々と歩いているところをみると仕事で来たようには見えない。
 山道に入ると蝉の鳴く声がいっそう増し、木々の緑はより鮮やかに濃くなった。交差点の少ない一本道の道路に沿って彼は山をのぼっていく。途中で地図を見たりする様子はなく、歩きなれた道のようにその足取りはしっかりとしていた。
「お参りに来たのかも……」
 ずっと黙っていた月子が急にぽつりともらした。
「この先で私は死んだの」
 月子はいつもより元気なさそうに話した。自分をお参りされるのを見るのはあまりいい気分ではないだろう。
「もう、いいわ」
 月子は立ち止まり彼女の親父とは反対方向に方向転換した。
「いいのか?」
 私は彼女の背中に語りかける。
「墓参りにではなく死んだ場所に参りにくるなんて。もしかしたら、こっちに月子がいることに感づいているのかもしれないぞ」
 月子は顔だけ半分振り返ってはっきり言い切る。
「見えるわけないのに気づくはずないわ」
 もっともな意見だった。彼が気づいているはずはない。ただ私は、彼がこちらにわざわざ花なんか持ってお参りに来るのには何か理由があると思っただけだ。
「私、帰る」
 月子は一人先に歩き始める。私は男のほうを振り返った。西日に照らされたその背広の影はぼんやりと短く道路の上に伸びていた。遅くも早くもならない少しゆっくりなペースで坂を上っている。
 対照的に月子は気づいているのかいないのか、私を置いて一人でさっさと坂を下っていった。同じように日光は降り注ぐものの、その着物姿の下に影は伸びていなかった。
 私はどちらを追うか迷ったが、夜になればどうせ月子はいつもの本屋の屋根の上で雑誌でも読んでいるだろうから、少し気になる月子の父親を追いかけることにした。彼が何を思い娘の死んだ場所に来たのか興味がわいたからだ。
 月子の父親は相変わらずの足取りで坂を上っていき、そのまま山の中の一本道をひたすら歩いて道路がY字路に分かれているところでやっと立ち止まった。私は彼の二メートルくらい手前の木の枝の上に腰をかけ、そこから様子をうかがうことにした。
 彼は両手の荷物を自分の傍らに置いてしゃがみこみ、持ってきたビニール袋から牛乳瓶と花を取り出した。それから、それを道路の端の白線の外側に立て置く。
 月子の親父はそこでしゃがんだまま手を合わせた。それから、花に向かって独り言をつぶやく。
「母さんが死んだよ」
 おそらく月子の母親のことだろう。もしそうなら、彼は一人この世に残されたことになる。
 月子の親父はそれだけ言うと鞄を手に取って立ち上がった。それから、Y字路の分岐している方に顔だけ向け、その場にぼうっと突っ立っていた。
 何をしているのだろう。
「良子。あなた趣味悪いわよ」
 私はびくっとして後ろを振り返る。少し涙目で不機嫌そうな月子が私のすぐ後ろで宙に漂っていた。気づかなかったが彼女も結局ついてきていたのだ。
「すまない……」
 私が謝ると月子はため息をつきながら私の横に座った。
「死んじゃったのね、母さん」
 彼女は涙目のまま言う。話も聞いていたようだ。
 私は何も応えずに彼女の手に私の手を添えた。その手は力なく私の手を握り返す。
「母さんは昔から喘息を患ってたの。私が物心ついたときからずっと気管支が弱くって、病院に入退院の繰り返しだったわ」
 月子の眼から涙が零れ落ちる。その雫は私の手に上に落ちてきてその甲を伝っていく。それは冷たく、そして温かい。不思議な感覚だった。手を伝い何かが私の中に流れてくる。
 私の目の中に、いいや頭の中に彼女の記憶が投影された。

 大学内の公衆電話から月子は実家に電話をしていた。もう夜で辺りは暗く、電話ボックスの周囲に人影はなかった。
「私大学辞める」
 月子は受話器に向かって決心を告げた。電話の相手は驚いたのか一瞬間を置いて返してくる。
『何言ってるんだ』
 受話器からは男の声が聞こえてくる。おそらく彼女の父親の声だ。落ち着いて大声を出さないようにしているようだが、その少し震えた声からしても穏やかじゃない様子だった。
「それじゃあ、お父さんはお母さんが死んでもいいって言うの!」
 月子は電話ボックスの中で大声を出す。
『いいわけないだろ』
 月子の親父はきっぱりと言う。
『月子がそんなことしなくても大丈夫だ。それくらいの金は父さんがなんとかできるから』
「嘘つき」
 月子は父親がすべて言い終わらないうちに吐き捨てる。
「嘘つき嘘つき嘘つき!」
 月子はまるで子供の悪口のように受話器に連呼した。
「お父さんが会社をリストラされたのも、無理してお金借りて借金がたまってるのも全部知ってる」
 受話器の向こうの彼女の父親は黙ったまま何も言い返さなかった。
「知ってるから、私」
 月子はもう一度繰り返す。
「だから、私大学辞める」
 彼女は父親にその決心の固さを伝える。
『そんなことして母さんが喜ぶとでも思っているのか。手術代はそんな急に手に入るような金額じゃあない。そんなことしなくても父さんがなんとか』
 父親の言葉に彼女は歯をかみ締める。
「わからずや」
 月子はそれ以上話しても理解してくれないと思ったのか、受話器を叩きつけるようにして強引に電話を切った。
 月子はわかっていただろう。いまどき高卒で雇ってくれる会社なんてそうそうないことも。考えられる収入といえば身体を売る水商売に手を出すか、身を投げるぐらいしかないことも。
 彼女は電話ボックスを出て、そのまま夜の大学を抜けて見覚えのある山道に向かった。真っ暗な道を点々と灯っている街灯の明かりだけを頼りに彼女はどんどん山奥に入っていった。
 泣きながらその山道をのぼっていく女子大生が何を思いながら歩いているのかは想像にたやすかった。

 私ははっと我に返る。私の横で一人の女の子が泣いていた。綺麗な黒い着物をまとった綺麗な黒い髪の女の子。いつの間にか私の腕に抱きつき、顔をこすりつけながら月子は泣いていた。
 彼女の流す涙が伝えるのか、それとも彼女の記憶が私に触れたのか、私の頭の中にそれはまるで夢を見るような感覚で彼女の記憶が映し出された。あれは彼女が死ぬ前の記憶だろうか。
「月子」
 私は彼女を抱きしめる。あの記憶を見れば彼女が自ら死を選んだ理由は明白だった。
「理不尽よ……」
 月子は私の胸で涙声でもごもごと口にする。その言葉は重い。彼女の選択肢は正しくない。しかし、彼女の死を、彼女たちの死に誰が文句をつけられよう。
 彼女もまた私と同様に死に悩まされた一人の人間だった。
「馬鹿だな、月子」
 彼女は生きていればよかった。ただそれだけだ。私のように病に蝕まれたわけでもなかったのだ。生きていさえすれば、こんな後悔はしなくて済んだだろうに。
「大丈夫だ、私は死んだりしない」
 私は彼女に約束する。私はもう死なないと。
 月子は私の胸の中で泣きながら微笑んでみせる。しかし、その笑顔は次の瞬間あっけなく崩れ去った。突然車のクラクションが聞こえたかと思うと、私の前方でブレーキ音と物がぶつかったときの重低音がほとんど同時に鳴り響いた。
「お父さん……」
 月子が後ろを振り返って泣き腫らした目を見開く。私たちのすぐ目の前に、頭から血を流してぐったりとしているスーツ姿の男の姿があった。
「そんな……、なんで」
 月子は自分の目の前で繰り広げられる光景を半ば放心状態で眺める。
「おい、大丈夫か!」
 彼女の父親を轢いた白いスポーツカーから、かなり慌てた様子で若い男が姿を現した。男は半ばパニック状態になりながらも、ぐったりと倒れている月子の父親に駆け寄る。
 私は奥歯をかみ締めた。彼女の父親は妻の死を娘に告げに来ただけではなかった。もとよりここで自殺するつもりで来ていたのだ。
「おとうさん」
 月子は届かない声で呼びかける。
「おとうさん」
 月子は私の手をほどき、まるで吸い寄せられるようにして父親の元へ向かう。
「待て、月子!」
 とっさに私は手を伸ばして彼女の腕を掴み引き止める。今の彼女では間違いなく父親に触れてしまう。
「はなして!」
 月子はつかむ腕を振りほどこうともがいたが、私は痛いぐらいにつかんでその手を離さなかった。もがく彼女を両手を使って抱き寄せる。
「また命を投げるのか?」
 私はできるだけ落ち着いた声で彼女をなだめる。
「それで何が解決した?」
 彼女に同じ過ちを踏ませたくなかった。
「誰が救われた?」
 彼女には酷な問いかけだったが、それでも私は彼女を失いたくなかった。
「誰が幸せになれる?」
 月子は知っている。彼女も彼女の家族も悲しみを背負ったことを。
「誰が……」
 私の声は嗚咽に変わる。私の感情に応えてか、月子はもがくのをやめ腕の中でおとなしくなった。
「救われるわ」
 月子は私の耳元でささやくように、しかしはっきりと言った。彼女は冷静にゆっくりと私の腕をほどいていく。
 だって、と彼女は続けた。
「一度死んだ私がもう一回死ぬことで悲しむ人なんてもういないもの」
 彼女は私の両手を握ったままいつものようににっこり笑う。
「幽霊になってることなんて誰も知らないわ」
 月子は確信を持っているかのように、まっすぐに私を見据えて言う。
「だから気にする人なんかいないの」
 彼女はくるっと背を向け大きな声で言う。
「だから今度こそ、私は救うことができる」
 私の足はまるで神経が切れてしまったかのようにいうことをきかなかった。前を歩いていくその背中を止めることはできなかった。身体が、頭が、いうことをきかなかった。
 ああ、ずるい。
 強く歯をくいしばったまま、私はその場でひとり涙をこらえた。

「おとうさん」
 月子は小さな声でつぶやきながら少し震える手で父親の頭を撫でた。それに呼応するように少しだけ父親がうめく。
「おい、大丈夫か。いま救急車呼びに行ってやるからな」
 はねた車の男が月子の父親をそっと抱きかかえて自分の車に乗せた。その車の中に月子も入り込んでいく。私も急いでその後を追って車の中に入った。
 二人と二つの幽霊を載せた車は山を下り民家を目指した。近くの民家で電話を借りれば救急車を呼ぶことができるからだ。
 坂を下りていくスポーツカーの中には、後ろまでシートを倒した助手席に彼女の父親が寝かされ、運転席とその間に月子、後部座席には私が乗っていた。
「ごめんなさい、おとうさん」
 彼女は泣きながら父親の頭の傷を押さえていた。身体が透き通るのを利用して傷口をきれいに塞いでいたので、車に乗っている間も頭部からの出血はほとんどなかった。しかし、月子の父親に意識はなく、運転手の呼びかけにも、彼女の声にもまったく反応しなかった。
「ごめんなさい」
 私は黙ったまま彼女を見ていた。生きた人間に触れた幽霊は消えるのだというその話は本当なのか。こんな状況でもそんなことを考えていた。
 まだ彼女は消えない。
「ごめんなさい」
 月子はひたすら同じ言葉を繰り返した。おそらく、その言葉にたくさんの意味を乗せて彼女は父親に語りかけている。
「ねえ、お父さん。聞こえてる?」
 月子の声は私と彼女の間にだけこだました。たとえ触れることができても、彼女の声が父親に届くことはなかった。
 生きた人間に触れた彼女の身体の変化は、車に乗って少しすると見て取れるようになった。徐々にだが、半透明の身体がさらに薄くなっていた。
 車は数分くらいで近くの民家にたどり着き、そこで救急車が来るのを待った。
「月子」
 聞こえているのかいないのか、父親が救急車に乗って病院に運ばれていく間、私の呼びかけに彼女は反応しなかった。
 手術室に運ばれ手当てを受けた後、彼女の父親の身体は集中治療室に移された。月子が傷口を押さえていたおかげなのか出血は致死量には至っていなかったようで、なんとか一命はとりとめていた。しかし、まだその意識は回復していなかった。
 私たちは彼女の父親が運ばれるのと同時にICUに移動する。
「月子」
 月子は父親の寝台の横に立ったまま顔だけ少しこちらに向けた。もう何十回目かの呼びかけでやっと反応した。
「見て、良子」
 彼女は右手をかざして見せた。
「もう、何にも触れられなくなった」
 月子はベッドを手で触れようとするが、その手は空気を切るのと同じように何の抵抗もなくすり抜けた。
「死の予兆かしら」
 彼女は少しうつむいて苦笑いする。私は近づいて彼女の右手をとった。その手は半透明だが、やわらかい普通の女の子の手だった。
「私はまだ触れる」
 私は頑として主張する。しかし、彼女の手は決して握り返してきたりはしなかった。いいや、もう握り返すことができないのかもしれない。
「あなただけずるいわ」
 彼女は私に握られた手を見て言葉とは反対に少しうれしそうに微笑む。私は少し強く握りなおした。
「月子……」
 私は彼女を呼ぶ。彼女は呼びかけに呼応することはなく、うつむいたまま私の顔を見ようとはしなかった。
「お前の記憶を見た。お前が泣いてたときに私の中に流れ込んできた」
 彼女は少し顔を上げ、静かに私に語りかける。
「そういえば、良子にはまだ教えてなかったわね。幽霊の涙はその人の記憶を映すの。私も一度だけだけど経験があるわ」
 部屋の中が薄暗いせいか、説明する月子の身体はもうかなり薄くなっているように見えた。だんだんと消えていく。
「幽霊って不思議なものね」
 月子は顔をあげて微笑む。私はもう一度彼女の手を握りなおす。その手の感触が私にあるうちは彼女は消えない気がした。
「ねえ、良子は幽霊は嫌いかしら?」
 私は好きよ、と彼女は私の返事を待たずに言う。
「あんなに成仏したいって言っていたのにおかしなものだ」
 会った当初の月子は本当に成仏したそうだった。ずいぶんと私のモノに触れる能力をうらやましがっていたものだ。考えてみれば、彼女に最初に会ってまだ一ヶ月ちょっとしか経っていなかった。
「嘘つきだな、月子は」
 彼女は肯定しなかったが否定もしなかった。ただ私に微笑みかけた。その姿はもう今にも消えてしまいそうに薄かった。私は彼女の感触を確かめるように何度もその手を握りなおす。大丈夫、やわらかい感触はそこにある。
「ねえ、良子」
 彼女はいつものように微笑んだまま私に問いかける。
「良子は成仏したいと思う?」
 私はその問いに少し迷った。
 わからない。成仏したいとは思わない。しかし、成仏したくないとも思わない。
「どうだろうな」
 私は結局あいまいな答えを返した。彼女が消えてしまった後もまだしばらくはこのまま幽霊でいるだろう。月子のように消える理由はない。むしろ消えられない理由のほうが強い。
「それじゃあ、私が消えたら寂しくなるわね」
 月子は微笑みながらその透明な頬に涙を流した。
「どうだろうな」
 私はさっきと同じように答える。
「昼間は一人で映画を見て、夜は一人で本を読むのかしら」
 彼女は泣いているせいか声が震えていた。
「どうだろうな」
 私の声も震える。
「でもきっと、美術館は行かないわね。あんまり興味なさそうだったもの」
 彼女はちょっとイタズラっぽく微笑んでみせる。
「それじゃあ、明日は美術館でも行くとするか」
 私もイタズラっぽく微笑む。
「行かないわ。だって、良子だもの」
「いいや、行く」
「行かない」
「行く」
 私たちはまるで小学生の口喧嘩のように言い争いをする。お互い次に言う言葉はわかっていた。
「嘘つき」
 私たちは二人同時に同じことを言って笑う。
「今度は本当に死ぬのね、私」
 月子は自分から私の手をほどいた。それは手をほどくというよりは、手がすり抜けるというものに近かった。それから彼女はベッド横に置いてある丸椅子に腰を下ろした。私も同じように隣の椅子に座る。
「最後までちゃんと看取ってね、良子」
「ああ」
 それは、彼女のことだろうか。それとも彼女の父親のことだろうか。いずれにせよ、私はそのつもりだった。
「そうだわ」
 彼女は思い立ったように立ち上がると、きょとんとしている私の膝の上にちょこんと腰を掛けた。それから私のしゃべりかたを真似て言う。
「しばらく私の椅子になってくれ」
 彼女は赤く腫れた顔でにいっと笑った。
 私は一瞬なんのことかわからなかったが、それに気付いた瞬間自分の顔が熱くなっていくのを感じた。
「お前……」
「おあいこね」
 そういえば、ずいぶん前に泣きながら彼女を抱きしめたような気がする。さっき私が彼女の記憶を見たように、おそらくそのとき彼女は私の記憶を見ていたのだ。
「椅子になってくれ」
 月子は面白そうに繰り返して私を茶化した。そして、自分で言って何度も笑う。
 楽しいときも、辛いときも、彼女はたえず笑顔をつくってきたのだろう。何度も自分に嘘をつきながら、何度も笑ってきたのだろう。
「良子、なんで泣くのよ」
 そういう月子も泣いていた。
「そんな顔してたら私安心して消えられないじゃない」
「うるさい」
 そんなに泣いているのだろうか、私は。本当は笑っていてやりたかった。気丈に冷静に、落ち着いて彼女を看取りたかった。
「それなら、お前が笑ってみせろ」
 私の声は震えていた。胸が詰まる。苦しい。
「ほら、これでどう?」
 月子は見事にいつものかわいい顔で笑ってみせた。しかし、その目に溜まったものは消せていない。
「泣きながら笑ってるぞ、この嘘つきめ」
 対抗して私も笑ってみせる。
「ダメね。良子はそういうつくり笑顔は似合わないわ、この嘘つきめ」
 お互いに末尾に辛らつな言葉を付け加える。
 嘘でいい。嘘でもいいのだ。この世界は嘘が真を作っている。
「泣かないで、良子」
 だめだ。ずるい。最後の最後でそんなやさしい言葉をかけないでほしい。
「ほら、らしくないわよ」
 私が瞬きした瞬間だった。彼女がそう言ったのが聞こえたかと思うと、もうわたしの目の前には彼女の姿はなかった。何も見えない。
 触ろうと、触れようと手を伸ばしてもそれはむなしく空を切る。
「月子」
 私は恐る恐る彼女の名前を声に出す。まるで赤子のように私は何もない場所に両手を伸ばす。
「月子」
 私はもう一度呼んだ。まだ、彼女の笑顔は私の脳裏に焼きついて離れていない。
「嘘つきめ」
 私も彼女も最後まで嘘をついた。
「けっきょく、救えなかったじゃないか」
 私は鼻をすする。涙のせいで目が痛い。
「ばか」
 もう死んでいる人間なのに、ただの幽霊なのに、彼女が消えた実感がわかなかった。
 最後の嘘は私がつかせてしまった。
 彼女はまた過ちを繰り返すことになってしまった。死ぬことで得られる救いなどこの世にはないのだ。
 集中治療室は窓がなく、そのせいでおおよその時間しかわからないが、おそらくもう夜もだいぶ更けているだろう。
 月子が消えてからも私はしばらくそこにじいっと座って離れなかった。まるで怪談に出てくる幽霊のように、私は病院の一室で座ったままずっとすすり泣いていた。
 だって、私は彼女の椅子だからな。しばらくは離れるわけにいかないのだ。

 私はしばらくしゃがんで手を合わせた後、ゆっくりと立ち上がる。
 あの後、私はしばらくその病院に通った。彼女の父親は、次の日にはなんとか意識が回復し、およそ一ヶ月ほどで退院することができた。
 その後、彼女の父親がどうなったのかは知らない。一度自殺まで自分を追い詰め、そこから再起をはかるのは並大抵のことではないだろう。
 あの時以来、この町に訪れているのを見かけたことはなかった。
 つまるところ、私はあのときからずっとこの町に居ついている。たまに自分以外の幽霊を見かけることがあるが、極力あまりかかわらないようにしている。理由は単純に面倒だからだ。それに、月子ほど仲良くなれる幽霊はもう現れない気がしたというのもあった。
「月子、私はいつ消えるんだろうな」
 私はモノに触れられる。だからおそらく、月子のように生きている人間に触れれば成仏するだろう。しかし、そうする理由もないのでこうして五十年もこの町に漂っていた。
 もう私の息子の信也も独立して都心の方に移住し、結婚もして家庭を持っている。その子供、要するに私の孫にあたる小童がこの辺りの大学に通い始めているようだったがまだ見に行ったことはない。勝昭はというと、今は一時的に移り住んできたその孫と一緒にこの町でのんびりと老後の生活を送っている。
 さすがに何十年とこの状態でさまよい続けているうちに、彼らに触れたいという欲求は起こらなくなった。むしろ、ここまでさまよい続けたのだから、せめてその余生を見送りたいと思っている。
「また来る」
 私は独り言を言い残してその場所を去った。考え事をしながらゆっくり山道を降りる。
 もう月子はいない。
 しかし、今でも時々考えることがある。もし、彼女がモノに触れることができるようにならなければ、彼女と私はずっと一緒にこの町をさまよい続けていただろうかと。
 どうだろう。
 彼女がなぜ突然モノに触れられるようになったのか本当のところはわからないので、私の勝手な推測だが、まだ幽霊でいたいと思うようになった彼女の心境の変化が触れる能力を芽生えさせたのではないかと考えている。
 そうなると、私はまだ幽霊でいたいということになる。
『ねえ、月子は成仏したいと思う?』
 彼女の質問がよみがえる。
 どうだろう。
 私は今でも同じ答えを返すだろう。それは五十年前となんら変わっていない。
 しかし、たとえ幽霊でも五十年さまよっていれば様々なことがあった。月子以外の幽霊とまったく関わらなかったわけではないし、いろいろなものを見ていろいろな経験をしてきた。少しも心境が変化しなかったといえば嘘になるだろう。
 しかし、やはりその度に結局は同じ結論に辿り着くのだ。
 勝昭がこんな私を見たらなんて言うだろう。お前らしいって笑うのだろうか。
 月子だったらなんて言うだろう。何も言わずに笑うかもしれない。
 坂を振り返って空を仰ぐ。青い空には大きな入道雲が何個も浮かんでいた。
 この町は、この国は、時々刻々と変化していく。そうやって歴史というものが作られている。その中で人も変わる。時代が変わればあらゆる考え方が変わる。
 私も変わるのだろうか。
 どうだろう。
 私は幽霊だからな。
 なんてことない自問自答を繰り返しながら再びゆっくりと坂を下る。今日はまだ陽が落ちるまでに時間がある。平日なので一般施設は人が少なく、観覧するにはもってこいだった。
 さっきの幽霊にも会いたくないし、今日は少し遠出をしよう。
 私は隣町の美術館へと足を向けた。
 行かない?
 行くって言っただろう、私は。


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